コラム

無様なのにキラキラ輝く『ばかのハコ船』は原石のよう

2020年10月06日(火)10時45分

ILLUSTRATION BY NATSUCO MOON FOR NEWSWEEK JAPAN

<観終わった僕は打ちのめされた。とんでもない映画を観てしまった、と。明確な起承転結はないし山場もない。だけど映画でしかありえない作品だ>

「森さんはいつ帰国しますか?」

ぶらぶら歩いていたバンクーバーの裏通りでばったり会った富岡邦彦プロデューサーからそう質問され「明日です」と僕は答える。

「『ばかハコ』観てくれました?」

「すいません。観ていないです」

「飛行機は何時ですか」

「明日の夕方です」

「それなら10時半からの上映を観てもらえますか。山下も喜びます」

こうして2作目の映画『A2』が招待されたバンクーバー国際映画祭で、僕は『ばかのハコ船』を観た。

ただしここで描写した会話のうち、ほぼ半分は創作。富岡が「ばかハコ」と言ったか「ばか船」と言ったかははっきり覚えていないし、そもそも声をかけてきたのは富岡ではなく、監督の山下敦弘や脚本の向井康介だった可能性もある。でもこの2人はどちらかといえば人見知りする性格で、まだそれほど親しくなかったから、たぶん富岡だったと思う。

人はこうして記憶を作る。思い出したくない過去は抹消して、都合の良い記憶の断片ばかりを集めて編集する。だって、もしもその機能を持たなければつらくて苦い記憶ばかりが堆積し、人はその重さと恥ずかしさでたぶん発狂する。人生とはそれほどに無様(ぶざま)で単調で卑屈で不細工な日常の繰り返しだ。

とにかく僕は、カナダを離れる日の朝早くに『ばかのハコ船』を観た。午前中の早い回ということもあって、客席はまばらだった。後方には、山下や向井たちスタッフが座っていた。

大阪芸術大学の卒業制作として山下が監督した『どんてん生活』はこれ以前に観ているから、ジム・ジャームッシュやアキ・カウリスマキに例えられる山下の脱力した作風は知っていた。でもならば僕は、なぜバンクーバーで『ばかのハコ船』を観ようとしなかったのだろう。おそらくだけど、理由の1つはタイトルに引かれなかったから。そしてもう1つは、日本に帰国してから観るチャンスはいくらでもあると考えたからだと思う。これに限らず海外の映画祭に呼ばれたときは、日本の配給会社が決して買わないような外国映画を優先して観ることにしている。邦画は後回し。街をぶらついたほうが楽しいと思ったのかもしれない。

結論を書けば(そしてこれは間違いなく事実)、観終わった僕はとんでもない映画を観てしまったと打ちのめされた。無様で単調で卑屈で不細工で凄(すご)い。そしてひりひりとリアル。どうやったらこんな演出ができるのか、どうやったらこんなシーンが撮れるのか、とにかく衝撃だった。

プロフィール

森達也

映画監督、作家。明治大学特任教授。主な作品にオウム真理教信者のドキュメンタリー映画『A』や『FAKE』『i−新聞記者ドキュメント−』がある。著書も『A3』『死刑』など多数。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

韓国検察、尹前大統領の妻に懲役15年求刑

ワールド

プーチン氏、一部の米提案は受け入れ 協議継続意向=

ビジネス

英サービスPMI、11月は51.3に低下 予算案控

ワールド

アングル:内戦下のスーダンで相次ぐ病院襲撃、生き延
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:日本時代劇の挑戦
特集:日本時代劇の挑戦
2025年12月 9日号(12/ 2発売)

『七人の侍』『座頭市』『SHOGUN』......世界が愛した名作とメイド・イン・ジャパンの新時代劇『イクサガミ』の大志

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    人生の忙しさの9割はムダ...ひろゆきが語る「休む勇気」
  • 2
    大気質指数200超え!テヘランのスモッグは「殺人レベル」、最悪の環境危機の原因とは?
  • 3
    トランプ支持率がさらに低迷、保守地盤でも民主党が猛追
  • 4
    日本酒の蔵元として初の快挙...スコッチの改革に寄与…
  • 5
    7歳の息子に何が? 学校で描いた「自画像」が奇妙す…
  • 6
    コンセントが足りない!...パナソニックが「四隅配置…
  • 7
    若者から中高年まで ── 韓国を襲う「自殺の連鎖」が止…
  • 8
    【クイズ】日本で2番目に「ホタテの漁獲量」が多い県…
  • 9
    海底ケーブルを守れ──NATOが導入する新型水中ドロー…
  • 10
    イスラエル軍幹部が人生を賭けた内部告発...沈黙させ…
  • 1
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで墜落事故、浮き彫りになるインド空軍の課題
  • 2
    7歳の息子に何が? 学校で描いた「自画像」が奇妙すぎた...「心配すべき?」と母親がネットで相談
  • 3
    【最先端戦闘機】ミラージュ、F16、グリペン、ラファール勢ぞろい ウクライナ空軍は戦闘機の「見本市」状態
  • 4
    100年以上宇宙最大の謎だった「ダークマター」の正体…
  • 5
    【クイズ】次のうち、マウスウォッシュと同じ効果の…
  • 6
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 7
    128人死亡、200人以上行方不明...香港最悪の火災現場…
  • 8
    【寝耳に水】ヘンリー王子&メーガン妃が「大焦り」…
  • 9
    【クイズ】世界遺産が「最も多い国」はどこ?
  • 10
    【銘柄】関電工、きんでんが上昇トレンド一直線...業…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 3
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎の存在」がSNSで話題に、その正体とは?
  • 4
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」は…
  • 5
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 6
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸…
  • 7
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 8
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 9
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 10
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story