コラム

安田純平さん拘束と、政府の「国民を守る」責任

2016年05月02日(月)14時04分

 安田さんはシリアに行く前にたびたび議論の場に来て、危険地報道の在り方や、政府との関係、社会に向けてどのように発信していくかなどの議論に参加していた。紛争地の取材は個々のジャーナリストが自分で発意して、自分の責任と使命感で行うものだが、紛争地取材に関わることに「社会的な責任」があると考えるからこそ、貴重な時間を割いて、ほかのジャーナリストとの議論の場に参加したのだと思う。

 安田さんが書いていることや議論への参加から考えれば、安田さんは政府に頼って解放されることは望んでいないとしても、日本政府が紛争地で拘束されたジャーナリストの救出のために積極的に動かないことをよしとしているわけではないと考える。さらに、紛争地で仕事をするのはジャーナリストだけでなく、人道支援にあたる国連職員やNGOのスタッフ、外務省関係者、企業関係者など幅広い。誰にとっても、生きて仕事を遂行することが最も重要なことであり、そのために安全対策をとる。ただし、最大限に安全対策をとっても、紛争地での仕事には100%の安全がないことを覚悟せざるを得ないのは、ジャーナリストだけの問題ではない。さらに、海外を旅行する日本人が紛争やテロに巻き込まれる例もある。つまり、「日本人の安全」を守る国の責任は、ジャーナリストだけの問題ではないということだ。

湯川さん・後藤さん事件で露呈した政府の交渉力のなさ

「国民を守る」国の責任について考える時に思い起こすのは湯川さんと後藤さんが殺害された「邦人殺害テロ事件」である。この問題では、ISが後藤さんと湯川さんに2億ドルという法外な身代金を突きつけたことばかりが問題となり、テロ組織であるISに身代金を払うことはできない、という日本政府の姿勢が強調されてきた。

 しかし、身代金を払わないために殺されたのは湯川さんだけであり、後藤さんの救出問題は、その後でISが身代金要求を撤回し、ヨルダンにいる女性死刑囚の釈放という条件を出して、全く別の段階に動いた。後藤さんとの交換の対象となったのは、ISの指導者ではなく、テロ事件に参加しながら自爆しないで生き残って死刑の判決を受けた女性の釈放であり、後藤さんの救出に一縷の希望が見えた。ところが、日本が現地対策拠点をおいていたヨルダンの政府は女性死刑囚の釈放について、ISに拘束されたヨルダン人パイロットの解放を条件とした。

 民間人の後藤さんの解放は人道的に解決されるべき最優先の課題であるのに対して、IS支配地域を空爆に行って拘束された軍人の解放はヨルダンとISの間で政治的に解決されるべき問題である。それは次元の異なる問題である。日本政府は後藤さん解放問題についてヨルダン政府が自国の軍人解放を関連させた時に、それを切り離すように説得すべきだった。女性死刑囚を抱えているのはヨルダンであるから、説得は簡単ではなかったとしても、「邦人救出」という国の責任がかかった問題で、政府の交渉力が問われた。結果的にはヨルダンはパイロットの生存が確認できないとして、女性死刑囚を釈放せず、後藤さんも殺害されてしまった。

プロフィール

川上泰徳

中東ジャーナリスト。フリーランスとして中東を拠点に活動。1956年生まれ。元朝日新聞記者。大阪外国語大学アラビア語科卒。特派員としてカイロ、エルサレム、バグダッドに駐在。中東報道でボーン・上田記念国際記者賞受賞。著書に『中東の現場を歩く』(合同出版)、『イラク零年』(朝日新聞)、『イスラムを生きる人びと』(岩波書店)、共著『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか』(集英社新書)、『「イスラム国」はテロの元凶ではない』(集英社新書)。最新刊は『シャティーラの記憶――パレスチナ難民キャンプの70年』
ツイッターは @kawakami_yasu

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

ハマス、人質のイスラエル軍兵士の遺体を返還へ ガザ

ワールド

中国外相、EUは「ライバルでなくパートナー」 自由

ワールド

プーチン氏、G20サミット代表団長にオレシキン副補

ワールド

中ロ、一方的制裁への共同対応表明 習主席がロ首相と
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:高市早苗研究
特集:高市早苗研究
2025年11月 4日/2025年11月11日号(10/28発売)

課題だらけの日本の政治・経済・外交を初の女性首相はこう変える

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎の存在」がSNSで話題に、その正体とは?
  • 2
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 3
    「あなたが着ている制服を...」 乗客が客室乗務員に「非常識すぎる」要求...CAが取った行動が話題に
  • 4
    「日本のあの観光地」が世界2位...エクスペディア「…
  • 5
    これをすれば「安定した子供」に育つ?...児童心理学…
  • 6
    高市首相に注がれる冷たい視線...昔ながらのタカ派で…
  • 7
    虹に「極限まで近づく」とどう見える?...小型機パイ…
  • 8
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」は…
  • 9
    【HTV-X】7つのキーワードで知る、日本製新型宇宙ス…
  • 10
    9歳女児が行方不明...失踪直前、防犯カメラに映った…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読み方は?
  • 3
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」はどこ?
  • 4
    【ウクライナ】要衝ポクロウシクの攻防戦が最終局面…
  • 5
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 6
    9歳女児が行方不明...失踪直前、防犯カメラに映った…
  • 7
    【クイズ】1位は「蚊」...世界で「2番目に」人間を殺…
  • 8
    女性の後を毎晩つけてくるストーカー...1週間後、雨…
  • 9
    「日本のあの観光地」が世界2位...エクスペディア「…
  • 10
    だまされやすい詐欺メールTOP3を専門家が解説
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    英国で「パブ離れ」が深刻化、閉店ペースが加速...苦肉の策は「日本では当たり前」の方式だった
  • 3
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」はどこ?
  • 4
    かばんの中身を見れば一発でわかる!「認知症になり…
  • 5
    1000人以上の女性と関係...英アンドルー王子、「称号…
  • 6
    悲しみで8年間「羽をむしり続けた」オウム...新たな…
  • 7
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 8
    【クイズ】日本でツキノワグマの出没件数が「最も多…
  • 9
    お腹の脂肪を減らす「8つのヒント」とは?...食事以…
  • 10
    増加する「子どもを外注」する親たち...ネオ・ネグレ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story