コラム

ラシュディ襲撃事件に見る、行き過ぎた異文化尊重の危うさ

2022年08月24日(水)15時15分
サルマン・ラシュディ

長年殺害の脅迫を受け続けたラシュディ(3月) DAVE BENETT/GETTY IMAGES

<襲撃を受けた『悪魔の詩』のサルマン・ラシュディはイギリスでは「表現の自由」の象徴だが、ラシュディ殺害のファトワ(宗教令)以降、イギリスは異文化に理解を示そうとするあまり自らの価値観を押さえつけて委縮し、道徳的公平性を気にしすぎていたのではないだろうか>

多くのイギリス人と同様、僕の本棚にもサルマン・ラシュディの本がある。だがご多分に漏れず、僕も数ページ程度しか読んでいない。その紛れもない文学の才のためというよりも、彼が象徴しているもののためにラシュディの本を買う、という人は多い。

彼は単に、死の脅迫に何十年も耐え続け、つい最近凄惨な暴力に襲われた人物というだけでなく、表現の自由のシンボルだ。一方、残念ながらイギリスには、ラシュディはある程度自業自得だと考える人々も(イスラム教徒だけでなく)たくさんいる。

それはイギリス社会の亀裂を示し、イギリスがこれまで確立してきた価値観の保護に失敗したことを物語っている。(著作『悪魔の詩』をめぐってイランの宗教指導者がラシュディ殺害を命じた)1989年のファトワ(宗教令)はイギリスの現代政治における歴史的な瞬間だった。本を執筆したという理由で、1人のイギリス市民を殺害せよとイギリス国籍の者たちが通りで抗議行動を繰り広げる――そんな光景を見て、僕たちは目を覚ました。イスラム原理主義が突如として、「外国の」脅威ではなく僕たちの目の前に現れ、イギリスの人々は衝撃と混乱に襲われたのだ。

イギリスのメディアも備えができていなかったことを露呈した。「相反する」価値観に理解を見せようとするあまり、ラシュディ批判の声はたっぷりと報じられ、「道徳的公平性」に徹した。児童文学の巨匠ロアルド・ダールはラシュディを「危険な日和見主義者」と呼び、自らの本が反感を買うのを分かったうえで無謀な売名行為をしていると非難した。ダール自身の過去の反ユダヤ主義的発言の数々は、当時はまだあまり問題視されていなかった。

メディアはイスラム教のスポークスマンとして、ユスフ・イスラム(かつてキャット・スティーブンスの名で活動していたイギリス人ポップスターで、イスラム教に改宗)にコメントを求めた――精通したイスラム学者というよりは、おそらく彼がイギリスで「最も有名」なムスリムだったからだ。彼は、預言者の冒涜は許されず、死刑のファトワに値するとのお決まりの文句を繰り返した。白人ポップスターがテレビでインド系イギリス人の殺害を承認するなどという事態は異常だったが、「人種差別」の非難を浴びたのはインド系のラシュディのほうだった。

メディアは委縮し自己検閲

繰り返し言っておくべきだが、これは単なるラシュディへの個人攻撃にとどまらない。彼の本に関わった人々も標的にされてきた。日本では翻訳した筑波大学の五十嵐一助教授が殺害され、ノルウェーの出版人も銃撃されて重傷を負った。

プロフィール

コリン・ジョイス

フリージャーナリスト。1970年、イギリス生まれ。92年に来日し、神戸と東京で暮らす。ニューズウィーク日本版記者、英デイリー・テレグラフ紙東京支局長を経て、フリーに。日本、ニューヨークでの滞在を経て2010年、16年ぶりに故郷イングランドに帰国。フリーランスのジャーナリストとしてイングランドのエセックスを拠点に活動する。ビールとサッカーをこよなく愛す。著書に『「ニッポン社会」入門――英国人記者の抱腹レポート』(NHK生活人新書)、『新「ニッポン社会」入門--英国人、日本で再び発見する』(三賢社)、『マインド・ザ・ギャップ! 日本とイギリスの〈すきま〉』(NHK出版新書)、『なぜオックスフォードが世界一の大学なのか』(三賢社)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

ビットコイン一時9万ドル割れ、リスク志向後退 機関

ビジネス

ユーロ圏銀行、資金調達の市場依存が危機時にリスク=

ビジネス

欧州の銀行、前例のないリスクに備えを ECB警告

ビジネス

ブラジル、仮想通貨の国際決済に課税検討=関係筋
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:世界も「老害」戦争
特集:世界も「老害」戦争
2025年11月25日号(11/18発売)

アメリカもヨーロッパも高齢化が進み、未来を担う若者が「犠牲」に

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    「ゲームそのまま...」実写版『ゼルダの伝説』の撮影風景がSNSで話題に、「再現度が高すぎる」とファン興奮
  • 3
    悪化する日中関係 悪いのは高市首相か、それとも中国か
  • 4
    「中国人が10軒前後の豪邸所有」...理想の高級住宅地…
  • 5
    マイケル・J・フォックスが新著で初めて語る、40年目…
  • 6
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 7
    「まじかよ...」母親にヘアカットを頼んだ25歳女性、…
  • 8
    【銘柄】ソニーグループとソニーFG...分離上場で生ま…
  • 9
    山本由伸が変えた「常識」──メジャーを揺るがせた235…
  • 10
    南京事件を描いた映画「南京写真館」を皮肉るスラン…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 3
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披露目会で「情けない大失態」...「衝撃映像」がSNSで拡散
  • 4
    「死ぬかと思った...」寿司を喉につまらせた女性を前…
  • 5
    【銘柄】ソニーグループとソニーFG...分離上場で生ま…
  • 6
    【写真・動画】「全身が脳」の生物の神経系とその生態
  • 7
    筋肉の正体は「ホルモン」だった...テストステロン濃…
  • 8
    「イケメンすぎる」...飲酒運転で捕まった男性の「逮…
  • 9
    「ゲームそのまま...」実写版『ゼルダの伝説』の撮影…
  • 10
    「中国人が10軒前後の豪邸所有」...理想の高級住宅地…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 3
    英国で「パブ離れ」が深刻化、閉店ペースが加速...苦肉の策は「日本では当たり前」の方式だった
  • 4
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」は…
  • 5
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 6
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 7
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 8
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 9
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 10
    今年、記録的な数の「中国の飲食店」が進出した国
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story