コラム

ガザ攻撃:ハマースはそんなに「脅威」なのか

2014年07月11日(金)22時46分

 イラクでのISIS(イラクと大シリアのイスラーム国)の動向に世界的な注目が集まる一方で、中東ウォッチャーたちは内心、別のことにハラハラしていた。6月12日に行方不明となった、ヨルダン川西岸地区に住むイスラエル入植者3人の運命だ。3人は生きているのか死んだのか、イスラエル、パレスチナ双方でヒリヒリした日にちが続いた後、6月29日に3人の遺体が発見された。

 そこから、事態は急転直下だった。イスラエル軍は、「ハマースの仕業だ」として早速「報復」を主張、ガザを再占領すると息巻いた。以降、イスラエルによる空爆で毎日ガザ市民が命を落とし、報復でハマースはロケット弾をイスラエル領内に打ち込む。イスラエルの攻撃が連日続くなかで、7月2日には、東エルサレムに住むパレスチナ人の少年がイスラエル入植者によって拉致され、生きたまま焼き殺される事件が起きた。それがパレスチナ人の怒りを煽り、その少年の葬儀のさなかにはパレスチナ住民とイスラエル軍の激しい衝突が起きた。イスラエルは7月8日以降空爆を激化させ、その圧倒的な武力によって11日までにパレスチナ人の死者は85人に上っている。

 この一連の展開は、不幸なイスラエル人三人の誘拐・殺害に端を発したことは確かだ。イスラエル国内では、事件発生以降、犯人を憎む激しい論調が行き交っていた。一方で、一部のパレスチナ人の間には、入植者三人の誘拐はイスラエルがハマースを叩く口実として作り上げた自作自演だ、という陰謀説まで出回った。報復で殺されたパレスチナ人少年の遺体が発見された場所が、悪名高きデイル・ヤーシーン村だというのも、パレスチナ人の怒りを挑発する格好の設定となった。デイル・ヤーシーン村は、イスラエル建国直前、イスラエルのテロ組織であるイルグンや軍事組織のハガナーが、もともとそこに住んでいたパレスチナ住民120〜250人を殺戮し、パレスチナ人を恐怖に陥れることで彼らに故郷を捨てさせたという、パレスチナ難民を生んだきっかけとなる場所である。

 だが、従来一触即発だった両者がこの事件で一気に全面衝突に至った、というのとは、事態は少し違うように思える。そもそも「すべての状況を利用して憎っくきハマースをとことんまでやっつける」とイスラエルが構えなければならないほど、入植者の誘拐・殺害がハマースの危険度を証明する事件だったというわけではない。この事件は西岸で起きたもので、ハマース幹部が拠点にするガザと事件の犯人がどれだけ密接な関係を持っているかは、疑問だ。実際、ハマースは事件への関与を否定している。だが、入植者の誘拐・殺害事件を口実にしなければならないほど、ハマースは差し迫った脅威だったのか。

 確かに、6月始めに成立した、ファタハとハマースのパレスチナ自治政府の統合は、これまで内紛を続けてきた両者が協力してイスラエルに当たることができるようになった、という点で、イスラエルには面白くなかっただろう。とはいえ、イスラエルが大規模攻撃を仕掛けなければならないほど、ハマースが手強く厄介な存在だったとは、思えない。

 なによりまず、1年前にエジプトで同胞団政権が倒れてから、ハマースは苦境にある。イスラーム主義の兄弟政権がたどった悲惨な道に意気消沈したこともあるが、それ以上にその後に成立したエジプトの軍事政権が、ガザとの密貿易ルートを徹底的に潰し、ガザ経済に大打撃を与えたのだ。数ヶ月前、ガザでパレスチナ人への支援活動を行っているNGOのスタッフが、こう言っていた。「今のパレスチナには、イスラエルに反旗を翻せる力はない。生活するだけで精一杯だ」。実際、2012年11月にハマースがイスラエルとの間で停戦に合意して以降、ハマースは一発もミサイルをイスラエルに打ち込んでいないのだ。

 国際社会がISISという新たな脅威にどう対応するか、頭を悩ませているときに、さして脅威とは思えないハマースをイスラエルが全力で叩くことが、今の中東の政治バランスにどう影響を与えるか。言い古された言い方ではあるが、さっそくサウディアラビアが出資する有力汎アラブ紙「シャルクルアウサト」は、イスラエルの行動に対して「そんなことをしてるとISISがパレスチナに現れることになるぞ」と脅している。イラクでのISIS退治にアメリカが頼らざるを得ないイランは、真っ先にイスラエルのガザ攻撃を激しく非難している。

 欧米では、ISISを前にしている今こそ全中東諸国が一致団結してISISに対峙すべきだ、という論調が強い。だが、イスラエルのガザ攻撃は逆に、アラブ、イスラーム諸国の「一致団結」をイスラエルに向けてしまうことになる。そもそもレバノン南部を拠点に対イスラエル抵抗運動として戦っていたヒズブッラーは、シリア内戦以降はシリアでアサド政権を助けて、ISISと戦ってきた。イラクでも頑張ろう、としてきた矢先に起きたイスラエルのガザ攻撃に、ヒズブッラーが「改めて敵はイスラエル」と自覚したら、どうなるか。イスラエルの行動がISISを利するのは、明らかだ。

 かつてPLOに対して、「テロリストを匿う者はテロリスト」というブッシュ米政権のレトリックを駆使して総攻撃を行ったイスラエル。今、「ガザには(ISISの)黒旗が翻っている」と主張して、ハマースをISIS並みの悪魔に仕立てようとしている。だが、結果的にISISを助けることになるガザ攻撃が、「テロに対する戦い」のレトリックで国際社会を説得できるとは思えない。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

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