コラム

イラク:地方選挙で反政府派再燃か

2013年04月10日(水)12時44分

 イラク戦争から10年なのに日本での反応はさっぱり、と前回、書いた。

 一方で、アラビア語の主要メディアは、4月9日になって「10年」回顧の記事を多く掲載している。そう、10年前に米軍がバグダードの市中に入り、サッダーム・フセインの銅像を引き倒して、「実質的なフセイン政権の打倒」を実現した日だ。アラブ諸国にとっては、米英が勝手に攻撃を始めた3月20日よりも、外国の手でフセイン政権が倒された4月9日のほうが、振り返るべき日なのだろう。

 特に、最近ではイラクでの死者数が再び増えている。イラク・ボディ・カウントによれば、昨年1年のイラク人民間人の死者は1か月平均で380人で、それ以前より40人ほど増えている。2012年から増えた、というと、つい2011年末に米軍が撤退したせいか、と考えがちだが、月によって200人から500人までばらつきがあるので、一概にそうもいえない。

 それより最近の治安の悪化の原因になっているのが、地方選挙を巡る政治抗争の激化だ。来る4月20日に、第3回地方議会選挙が全国一斉に実施されるのだが、来年には国会選挙を控えているので、その前哨戦として注目されている。その選挙対策のつもりか、マーリキー首相は昨年12月、スンナ派の大物政治家で副首相、外務担当相の経験もあるイーサウィ財政相に対する追い落としを開始した。イーサウィの警護官(複数)にテロ容疑がかけられ、当局に拘束されたのである。今年に入ってからは、本人が直接襲撃される事件も発生した。

 この手口は、2011年末に、同じくスンナ派政党の重鎮、ハーシミー副大統領に対して行われた方法と同じだ。まず警備官が首相など要人に対する暗殺計画事件に関与していたとして捕え、その後本人に対しても「死刑」判決を下した。ハーシミーは国外に逃げて死刑は免れているが、マーリキー政権としては、ライバルが国内にいないだけでもありがたい、というところだろう。

 次に狙われたのが、イーサウィ財政相だったわけだが、イーサウィとハーシミーでは同じスンナ派政治家でも、その意味が全く違う。ハーシミーは、イラク戦争まではイラク国外で活動していた亡命政治家だ。地元の支持基盤はない。

 一方、イーサウィは、戦前からずっと地元のアンバール県で医療行政に携わってきた人物である。特に2004年、米軍のファッルージャに対する激しい掃討作戦が行われたとき、同市の総合病院の長を務めていた。戦争下でも内戦下でも、被害を受けた住民の側に立ち、それを背景に政治の世界に入ったのだろう。

 だからこそ、政府がイーサウィを糾弾し始めてからというもの、ファッルージャを中心に、アンバール県の住民感情に火がついた。連日のように反政府デモが続いているのである。そもそもファッルージャは、米軍駐留時代に最も住民の反米意識が強く、それを利用して海外からさまざまなイスラーム過激派が流入した地域だ。この県で殺害された米兵の数は、全体の3分の1にも上る。県人口はイラクの全人口の5%程度だというのに、である。

 2006年以降、米軍はなんとかアンバール県の治安を回復しようと、地元部族を懐柔して、海外からの過激派と地元住民の間を割くことに成功した。その結果、2008年後半以降は米兵やイラク人民間人の死者も大きく減少し、米軍はなんとか「イラクは安定した」との面目を保って、撤退できたのである。

 それだけ苦労したこの地域の安定が、選挙前の派閥政争が原因で崩されつつある。これまでの「宗派間和解」の努力を水の泡にしても、マーリキー首相は権力強化に邁進しているのだろうか。1月には「混乱よりも独裁のほうがマシだろう」とも聞こえる発言を行い、顰蹙を買っている。10年前に引き倒された銅像の姿と、重ならなければよいのだが。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

インド、米通商代表と16日にニューデリーで貿易交渉

ビジネス

コアウィーブ、売れ残りクラウド容量をエヌビディアが

ワールド

米軍、ベネズエラからの麻薬密売船攻撃 3人殺害=ト

ビジネス

米アルファベット、時価総額が初の3兆ドル突破 AI
MAGAZINE
特集:世界が尊敬する日本の小説36
特集:世界が尊敬する日本の小説36
2025年9月16日/2025年9月23日号(9/ 9発売)

優れた翻訳を味方に人気と評価が急上昇中。21世紀に起きた世界文学の大変化とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 2
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェイン・ジョンソンの、あまりの「激やせぶり」にネット騒然
  • 3
    腹斜筋が「発火する」自重トレーニングとは?...硬く締まった体幹は「横」で決まる【レッグレイズ編】
  • 4
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる…
  • 5
    ケージを掃除中の飼い主にジャーマンシェパードがま…
  • 6
    電車内で「ウクライナ難民の女性」が襲われた驚愕シ…
  • 7
    観光客によるヒグマへの餌付けで凶暴化...74歳女性が…
  • 8
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 9
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 10
    「この歩き方はおかしい?」幼い娘の様子に違和感...…
  • 1
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 2
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 3
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれば当然」の理由...再開発ブーム終焉で起きること
  • 4
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 5
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる…
  • 6
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人…
  • 7
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 8
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 9
    埼玉県川口市で取材した『おどろきの「クルド人問題…
  • 10
    観光客によるヒグマへの餌付けで凶暴化...74歳女性が…
  • 1
    「4針ですかね、縫いました」日本の若者を食い物にする「豪ワーホリのリアル」...アジア出身者を意図的にターゲットに
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 4
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 5
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 6
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 7
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 8
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれ…
  • 9
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット…
  • 10
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story