コラム

尖閣ビデオはメディアの歴史の転換点

2010年11月18日(木)11時37分

 神戸海上保安部の海上保安官が尖閣諸島のビデオをYouTubeから流した事件は、外交から司法までさまざまな分野に波紋を投げかけたが、メディア業界にも大きなショックを与えた。先週、ある放送業界のシンポジウムに出席したが、ちょうど海上保安官が警察に出頭した翌日だったので、話はそれに集中した。

 シンポジウムに出席したのは民放の在京キー局の報道局長クラスだったが、全員ショックを受けていたのは、あのビデオがテレビではなくYouTubeに流されたことだった。今までだったら、公務員が内部告発しようと思ったら、テレビ局にビデオを持ち込むだろう。しかし今回は、それを考えた形跡もない。ある局の幹部は、こう言った。

「テレビ局に持ち込んでも、流してくれないと思ったから、YouTubeに流したのだろう。たしかに持ち込まれても、放送できるかどうかはわからない。現場は絶対に流すというだろうが、これは明白な国家公務員法違反だ。『コンプライアンス』にうるさくなった法務部が、OKするだろうか」

 司会者が引き合いに出したのは、1972年の西山事件だった。これは沖縄返還に際して基地の移転費用の一部を日本側が負担する密約を毎日新聞の西山太吉記者が暴いた事件だが、彼が外務省の審議官の秘書と「情を通じて」国家機密を漏洩させたとして、記者も国家公務員法違反で逮捕され、最高裁まで争われた結果、被告が敗訴した。これによって日本では、機密漏洩についてはメディアも刑事責任を問われるという判例ができてしまった。

 他方アメリカでは、ペンタゴン・ペーパー(国防総省のベトナム戦争についての機密書類)事件やウォーターゲート事件で、メディアが免責される判例ができた。しかし日本では西山事件以降、国家機密をメディアが独自に暴く事件はなくなった。しかし別の局のキャスターは、

「あのビデオを持ち込まれて流せないようなら、もうテレビは終わりだ。テレビ局なんて会社としては大した規模じゃないが、報道としては日本の1割ぐらいの影響がある。報道は経営よりはるかに大きいんだ」

 と言った。別の局の幹部は、正直にこう言った。

「私も流すしかないと思うが、外交問題になるのは必至なので、免許の認可権をもっている政府と対決して闘えるかどうか・・・。系列の新聞と一緒にやるかもしれない」

 各局の幹部が一様に語っていたのは、テレビがもう一次情報を独占するメディアではないということだ。事件があると、まずテレビが現場へ行って中継し、新聞が書いて雑誌が論評する・・・というメディアの「食物連鎖」を、今回の事件は壊してしまった。一般人が、いきなり全世界に向けて大スクープを飛ばせる時代になってしまったのだ。

 今まで大手メディアは、電波や輪転機というインフラを独占して利潤を上げてきた。90年代にそのボトルネックがインターネットによって破壊されたとき、今のような時代が来ることは必然だったが、新しいメディアが古いメディアを超えるのは意外に遅い。それは古いメディアが、記者クラブや著作権などの情報のボトルネックを作り出しているからだ。しかし今回の事件は、こうした情報統制もきかないことを示した。

 ではジャーナリストにはもう存在価値はないのだろうか。私はそうは思わない。インフラ独占には意味がないが、情報の中身で競争する時代が来るだろう。私の運営しているウェブサイト「アゴラ」にはいろいろな人から投稿が来るが、文章を書いて生活しているプロの投稿とアマの投稿には、歴然とした質の差がある。「読ませる文章」を書ける人は、会社がなくなっても電子出版などによって独力でで生きていけるだろう。

 他方、メディアで働いている人の大部分は、他人の取材した文章を直したり映像を編集したりする仕事だが、そういう人はプロデューサーとしてメディアを経営する側に回ればよい。今の会社にしがみついていても未来はないし、年を取るとつぶしがきかなくなる。今回の事件は、重要な情報さえもっていれば、何もインフラをもっていなくても世界を動かせることを示した。その意味で、メディアの歴史に残る出来事になるだろう。

プロフィール

池田信夫

経済学者。1953年、京都府生まれ。東京大学経済学部を卒業後、NHK入社。93年に退職後、国際大学GLOCOM教授、経済産業研究所上席研究員などを経て、現在は株式会社アゴラ研究所所長。学術博士(慶應義塾大学)。著書に『アベノミクスの幻想』、『「空気」の構造』、共著に『なぜ世界は不況に陥ったのか』など。池田信夫blogのほか、言論サイトアゴラを主宰。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

アングル:ミャンマー内戦、国軍と少数民族武装勢力が

ビジネス

「クオンツの帝王」ジェームズ・シモンズ氏が死去、8

ワールド

イスラエル、米製兵器「国際法に反する状況で使用」=

ワールド

米中高官、中国の過剰生産巡り協議 太陽光パネルや石
MAGAZINE
特集:岸田のホンネ
特集:岸田のホンネ
2024年5月14日号(5/ 8発売)

金正恩会談、台湾有事、円安・インフレの出口......岸田首相がニューズウィーク単独取材で語った「次の日本」

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    大阪万博でも「同じ過ち」が繰り返された...「太平洋戦争の敗北」を招いた日本社会の大きな弱点とは?

  • 2

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などできない理由

  • 3

    ウクライナ防空の切り札「機関銃ドローン」、米追加支援で供与の可能性

  • 4

    過去30年、乗客の荷物を1つも紛失したことがない奇跡…

  • 5

    「少なくとも10年の禁固刑は覚悟すべき」「大谷はカ…

  • 6

    中国のホテルで「麻酔」を打たれ、体を「ギプスで固…

  • 7

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受…

  • 8

    この夏流行?新型コロナウイルスの変異ウイルス「FLi…

  • 9

    礼拝中の牧師を真正面から「銃撃」した男を逮捕...そ…

  • 10

    「恋人に会いたい」歌姫テイラー・スウィフト...不必…

  • 1

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地ジャンプスーツ」が話題に

  • 2

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受ける瞬間の映像...クラスター弾炸裂で「逃げ場なし」の恐怖

  • 3

    大阪万博でも「同じ過ち」が繰り返された...「太平洋戦争の敗北」を招いた日本社会の大きな弱点とは?

  • 4

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 5

    「恋人に会いたい」歌姫テイラー・スウィフト...不必…

  • 6

    屋外に集合したロシア兵たちを「狙い撃ち」...HIMARS…

  • 7

    テイラー・スウィフトの大胆「肌見せ」ドレス写真...…

  • 8

    外国人労働者がいないと経済が回らないのだが......…

  • 9

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 10

    日本の10代は「スマホだけ」しか使いこなせない

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 4

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 5

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 6

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 7

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 8

    NASAが月面を横切るUFOのような写真を公開、その正体…

  • 9

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

  • 10

    「世界中の全機が要注意」...ボーイング内部告発者の…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story