コラム

「フジ子・ヘミング現象」の何が問題なのか?

2011年09月28日(水)12時05分

 ピアニストのフジ子・ヘミング女史のリサイタルを聞く機会がありました。場所は、ニューヨークのリンカーンセンター内のアリス・タリー・ホール。東日本大震災のチャリティーという主旨もあって、多くの聴衆が集まっていました。その聴衆ですが、ザッと見渡したところ95%は日本人のようで、場内のアナウンスも日本語だけであったり、在米日本人コミュニティーのイベントということは明らかでした。改めて日本でのフジ子人気の凄さを感じさせられました。

 リサイタルの内容ですが、一部で言われているような「超スローテンポ+旋律の濃厚な味付け」のユニークな演奏というのではなく、端正でロマンチックな普通の演奏でした。確かにテンポに変化をつける部分はありましたが、一小節内のリズムは良くも悪くもメトロノームを刻むような正確さがあり、節度を崩した演奏という印象はありませんでした。

 メカニックにしても解釈にしても最近のピアノ界の様々な「技術革新」や「研究成果」とは無縁のものでしたが、メロディー偏重の味付けは古き良きピアノ演奏スタイルであり、どこか懐かしさを感じさせる演奏だったと思います。中でもスタインウェイの中高音をブリリアントにしっかり鳴らしている「音」は、十分に印象に残るものであり、ご本人の人懐っこいステージマナーと共に、一晩のピアノ・リサイタルとしては満足の行くものでした。

 ですが、このリサイタルを聞いて、またヘミング女史に関する過去の日本のTV番組のクリップなどを見て、また一方でネット上に溢れている賛否両論に触れてみて、私は考えこんでしまいました。というのは、この「フジ子・ヘミング現象」というのは、日本の音楽界における専門家グループ、つまり「国内演奏家+音楽教育者+音大生」からも、そして愛好家グループ、つまり「新旧の海外演奏家のファン+文学的な印象批評の読者」の双方からほぼ全否定されているようだからです。

 実は日本のクラシック音楽界では、昔からこの「ドメスティックな専門家」と「音楽ファン」は仲が悪いのです。ベルリン・フィルやメットオペラの来日公演に一枚3万円とか6万円といったカネをはたく音楽ファンの多くは、国内の演奏家には見向きもしません。ただ、日本人が海外のコンクールで優勝したり、海外のオーケストラで常任指揮者になったりすると、突然「外タレと同レベル」に見なして応援を始めるわけで、そんな音楽ファンの存在は、国内の専門家には遠い存在でしかありませんでした。

 では、その犬猿の仲である両者がどうして「フジ子批判」ではタッグが組めているのでしょうか? 一つには、ヘミング女史の演奏スタイルが、現代の基準からは外れているということがあります。まず現代のピアノ演奏は、メカニックの面での技術革新が進んでいます。これは1970年代に「ポリーニ、アルヘリチ、ベルマン」といったピアニスト達がプロに要求される技巧的な水準を一段引き上げてしまい、現在はそうした「上手い」演奏を当然のように聞いて育った若手が、更にメカニカルな安定度を競っているわけです。

 そうした時代的な視点から見ると、60年代以前の香りのするヘミング女史の演奏は「許せない」ということになるのだと思います。右手がメロディーを歌っているときに、左手の伴奏がどう動くのかというのは、現代の演奏では意図して設計して立体感を出すのは当たり前ですが、フジ子流の即興的なスタイルでは、完全に意識が右手に集中してしまっているようなことがあり、これは「断じて許せない」ことになります。また「譜面の進行上に多少曖昧な部分がある」などというのは「あってはならないこと」なのでしょう。

 演奏解釈も同様で、70年代以降こちらも精密な表現技法がどんどん進む中、メロディーに耽溺するようなスタイルは、現代では嫌われます。そうした問題に加えて、長引く不況の中で、クラシック音楽界も大きな影響を受けているという環境では、ヘミング女史のリサイタルだけが突出して大勢の聴衆を集め、CDにしても百万単位で売れているというのは、嫉妬心を越えて業界全体の構造的な問題になっているのも分からなくはありません。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

根強いインフレ、金融安定への主要リスク=FRB半期

ビジネス

英インフレ、今後3年間で目標2%に向け推移=ラムス

ビジネス

米国株式市場=S&Pとナスダック下落、ネットフリッ

ワールド

IMF委、共同声明出せず 中東・ウクライナ巡り見解
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:老人極貧社会 韓国
特集:老人極貧社会 韓国
2024年4月23日号(4/16発売)

地下鉄宅配に古紙回収......繁栄から取り残され、韓国のシニア層は貧困にあえいでいる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 2

    止まらぬ金価格の史上最高値の裏側に「中国のドル離れ」外貨準備のうち、金が約4%を占める

  • 3

    中国のロシア専門家が「それでも最後はロシアが負ける」と中国政府の公式見解に反する驚きの論考を英誌に寄稿

  • 4

    休日に全く食事を取らない(取れない)人が過去25年…

  • 5

    「韓国少子化のなぜ?」失業率2.7%、ジニ係数は0.32…

  • 6

    ハーバード大学で150年以上教えられる作文術「オレオ…

  • 7

    日本の護衛艦「かが」空母化は「本来の役割を変える…

  • 8

    中ロ「無限の協力関係」のウラで、中国の密かな侵略…

  • 9

    毎日どこで何してる? 首輪のカメラが記録した猫目…

  • 10

    便利なキャッシュレス社会で、忘れられていること

  • 1

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 2

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 3

    攻撃と迎撃の区別もつかない?──イランの数百の無人機やミサイルとイスラエルの「アイアンドーム」が乱れ飛んだ中東の夜間映像

  • 4

    天才・大谷翔平の足を引っ張った、ダメダメ過ぎる「無…

  • 5

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 6

    アインシュタインはオッペンハイマーを「愚か者」と…

  • 7

    犬に覚せい剤を打って捨てた飼い主に怒りが広がる...…

  • 8

    ハリー・ポッター原作者ローリング、「許すとは限ら…

  • 9

    価値は疑わしくコストは膨大...偉大なるリニア計画っ…

  • 10

    大半がクリミアから撤退か...衛星写真が示す、ロシア…

  • 1

    人から褒められた時、どう返事してますか? ブッダが説いた「どんどん伸びる人の返し文句」

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    88歳の現役医師が健康のために「絶対にしない3つのこと」目からうろこの健康法

  • 4

    ロシアの迫撃砲RBU6000「スメルチ2」、爆発・炎上の…

  • 5

    バルチック艦隊、自国の船をミサイル「誤爆」で撃沈…

  • 6

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 7

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 8

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 9

    1500年前の中国の皇帝・武帝の「顔」、DNAから復元に…

  • 10

    浴室で虫を発見、よく見てみると...男性が思わず悲鳴…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story