コラム

猪瀬発言:「イスラーム初」か「アジア初」か

2013年05月02日(木)12時58分

 猪瀬都知事の発言が原因で、オリンピックの東京招致に影が差している。

 「イスラム国はけんかばかり」という侮蔑的表現が取り上げられることが多いようだが、その発言を弁解するときに「雑談のつもりだった」と言った、「イスラム圏初ってそんな意味あるのかなあ」という発言のほうが、筆者は気になる。なぜなら半世紀前に東京でオリンピックが行われたときの、最大のウリが「アジア初のオリンピック」だったからだ。

 そこで思い出したのが、1964年の東京オリンピックの際のゴタゴタである。

 問題が起きたのは、オリンピック開催まであと2年強となった1962年8月、インドネシアで開催されていたアジア競技大会でのこと。この大会に、イスラエルと台湾の参加がインドネシアによって拒否されたのである。インドネシアは、インドのネルー首相やエジプトのナセル大統領と並んで、1955年以降アジア、アフリカ諸国を席巻していた非同盟諸国運動の中核だった。当然、1956年の第二次アラブ・イスラエル戦争では、アラブ陣営を支持していた。宗教的にも、アラブ諸国とインドネシアの間には、「イスラーム教徒の国」という共通点がある。主催国インドネシアは、反イスラエル姿勢でアラブ諸国に連帯を示した。

 これが国際オリンピック委員会(IOC)の逆鱗に触れた。IOCは「政治とスポーツを分離すべしとの原則に反している」として、アジア競技大会を正式競技大会としては認めないとし、インドネシアをIOC会員停止処分とした。

 困ったのは、開催国日本である。アジア初の東京オリンピックに、アジアの大国インドネシアが参加しないのは困る。なにより第二次大戦期にインドネシアを占領していた日本が、インドネシアと平和条約を結んだのは、つい4年前のことだ。問題の舞台となったアジア競技大会は、その四年前に日本が開催国となっていて、オリンピックの東京招致のために大いに利用した大会でもある。

 大臣やIOC委員でもあった都知事が駆け回り、スカルノ大統領とIOC会長の仲介に奔走するなど、日本政府はぎりぎりまでインドネシア参加の道を模索した。今から振り返れば、驚くべき粘り腰外交である。だが、「イスラエルを拒否したせいでインドネシアがオリンピックから拒否されているなら、我々こそオリンピックを拒否すべき」とばかりに、アラブ諸国がこぞって不参加の姿勢を表明、参加国がどんどん減っていく。

 その後紆余曲折、二転三転し、インドネシア、IOC両者の歩み寄りが見られなかったのが、開催半年前、IOCが突然、折れた。インドネシアの資格停止を解いたのである。そのときにインドネシア代表が出した声明が、こうだ。「日本、メキシコ、アジア・アフリカ諸国の好意に報い、アジアで最初のオリンピックを成功させるためにインドネシアは参加する」(朝日新聞、1964年8月3日)。

 結果的には、インドネシアは開会式に参加したものの、実は翌日には選手団を引き上げざるを得なかった。IOCとの関係悪化に怒ったインドネシアが、63年に独自に「新興国競技大会」を立ち上げていたため、国際水連や陸連などが、そこに参加した選手はオリンピックに参加させない、としたためだ。

 当時の報道や資料を読むと、オリンピック成功のために日本政府がアジアと欧米中心の国際組織との間をなんとか取り持とうと、必死だった様子がよくわかる。「アジアの一員として」が、日本の国際社会進出の鍵だった。もし今回の騒動を超えて、東京がオリンピック開催地に選ばれたとしたら、50年前のスピリットをもって運営できるだろうか。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

G7外相、イスラエルとイランの対立拡大回避に努力=

ワールド

G7外相、ロシア凍結資産活用へ検討継続 ウクライナ

ビジネス

日銀4月会合、物価見通し引き上げへ 政策金利は据え

ワールド

アラスカでの石油・ガス開発、バイデン政権が制限 地
MAGAZINE
特集:老人極貧社会 韓国
特集:老人極貧社会 韓国
2024年4月23日号(4/16発売)

地下鉄宅配に古紙回収......繁栄から取り残され、韓国のシニア層は貧困にあえいでいる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 2

    止まらぬ金価格の史上最高値の裏側に「中国のドル離れ」外貨準備のうち、金が約4%を占める

  • 3

    中国のロシア専門家が「それでも最後はロシアが負ける」と中国政府の公式見解に反する驚きの論考を英誌に寄稿

  • 4

    休日に全く食事を取らない(取れない)人が過去25年…

  • 5

    「韓国少子化のなぜ?」失業率2.7%、ジニ係数は0.32…

  • 6

    ハーバード大学で150年以上教えられる作文術「オレオ…

  • 7

    日本の護衛艦「かが」空母化は「本来の役割を変える…

  • 8

    中ロ「無限の協力関係」のウラで、中国の密かな侵略…

  • 9

    毎日どこで何してる? 首輪のカメラが記録した猫目…

  • 10

    便利なキャッシュレス社会で、忘れられていること

  • 1

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 2

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 3

    攻撃と迎撃の区別もつかない?──イランの数百の無人機やミサイルとイスラエルの「アイアンドーム」が乱れ飛んだ中東の夜間映像

  • 4

    天才・大谷翔平の足を引っ張った、ダメダメ過ぎる「無…

  • 5

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 6

    アインシュタインはオッペンハイマーを「愚か者」と…

  • 7

    犬に覚せい剤を打って捨てた飼い主に怒りが広がる...…

  • 8

    ハリー・ポッター原作者ローリング、「許すとは限ら…

  • 9

    価値は疑わしくコストは膨大...偉大なるリニア計画っ…

  • 10

    大半がクリミアから撤退か...衛星写真が示す、ロシア…

  • 1

    人から褒められた時、どう返事してますか? ブッダが説いた「どんどん伸びる人の返し文句」

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    88歳の現役医師が健康のために「絶対にしない3つのこと」目からうろこの健康法

  • 4

    ロシアの迫撃砲RBU6000「スメルチ2」、爆発・炎上の…

  • 5

    バルチック艦隊、自国の船をミサイル「誤爆」で撃沈…

  • 6

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 7

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 8

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 9

    1500年前の中国の皇帝・武帝の「顔」、DNAから復元に…

  • 10

    浴室で虫を発見、よく見てみると...男性が思わず悲鳴…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story