コラム

上海で拘束された台湾「八旗文化」編集長、何が中国を刺激したのか?

2023年05月01日(月)11時30分

「興亡の世界史」を紹介する富察氏のYouTube動画

<上海で中国当局に拘束された台湾「八旗文化」出版の編集長・富察氏に世界の注目が集まっている。何が中国当局を刺激したのか。自著の翻訳・出版で長年富察氏に協力してきた楊海英氏が語る中国の「レッドライン」>

3月末に上海にいる母親に会いに行ったところ、中国当局に拘束された台湾の八旗文化出版の編集長・富察(フーチャー)氏が、世界各国のメディアから注目されている。

八旗出版は私の本も複数、日本語から中国語に翻訳して出してくれた。彼の出した学術書を断罪するならば、私は間違いなく「共犯者」の1人である。説明責任を果たすためにも、その経緯と背景について書かなければならない。

岩波書店から2009年に出版され、司馬遼太郎賞を受賞した拙著『墓標なき草原―内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』は、2014年に八旗出版から翻訳・刊行された。共産党決議により正式に否定されつつ、いまだにタブー視される文化大革命(以下、文革)について、歴史学の視点から書いたものだが、2016年に文革発動50周年を迎える予定だったこともあり、中国語圏で広く読まれた。

その後、『モンゴルとイスラーム的中国』(風響社、後に文春学藝ライブラリー)、『逆転の大中国史』(文藝春秋)、そして『モンゴルと中国のはざまで―ウラーンフーの実らなかった民族自決の夢』(岩波書店)も翻訳して出してくれた。いずれもモンゴル草原とシルクロードに憧れる台湾の読者が、そこに暮らす人々の生き方についての理解を深めるのに役に立った、と台湾の出版関係者やメディア人から聞いたことがある。

台湾人の歴史観を変えたい、と富察氏と私は語り合った。日本はかつて台湾の宗主国で、中国は現在、領有権を主張して譲らない。では、世界史的に見れば、台湾と日本との関係、台湾と中国との関係、さらには日本と中国の関係についても世界の中で相対化する必要があるのではないか。そうした目的から私は彼に講談社の「興亡の世界史」シリーズを紹介した。

日本の大手出版社が数年ごと、冒険的に出す世界史シリーズは各国で好評だが、版権取得に資金がかかり、売れなかった場合は会社がつぶれる危険性もある。それでも富察氏は堅い意志でそのシリーズを購入し、数年かけて刊行した。

「興亡の世界史」シリーズの中国語版は成功した。当然、対岸の中国も出版したいと交渉してきた。台湾の翻訳は精確でレベルも高い。問題は内容だ。「興亡の世界史」シリーズの日本人歴史学者の見方は大抵、中国政府と合わない。検閲が通らないと、一方的に改ざんされる。中国による改ざんに複数の日本人歴史学者が抗議していたのを私は傍らで見ていた。改ざんされても、日本の研究水準の一端を中国の読者に伝えたい、と彼は努力していた。

では、何が検閲で引っかかるのか。例えば、シリーズの中の杉山正明・京都大学名誉教授による『モンゴル帝国と長いその後』は、ユーラシア史の中のモンゴルの活動とその継承国家である清朝や帝政ロシアの変貌について述べているが、モンゴルは世界的な民族であって、「中国の少数民族」としては収まらないこと、民族問題の遠因には今の中国政府の不寛容があると示唆している。こうした本を読めば、中国のモンゴル人たちが栄光の過去に目覚め、立ち上がって民族問題を起こすのではないか、という杞憂が北京当局になかったとは言えない。

プロフィール

楊海英

(Yang Hai-ying)静岡大学教授。モンゴル名オーノス・チョクト(日本名は大野旭)。南モンゴル(中国内モンゴル自治州)出身。編著に『フロンティアと国際社会の中国文化大革命』など <筆者の過去記事一覧はこちら

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

米中貿易枠組み合意、軍事用レアアース問題が未解決=

ワールド

独仏英、イランに核開発巡る協議を提案 中東の緊張緩

ワールド

イスラエルとイランの応酬続く、トランプ氏「紛争終結

ワールド

英、中東に戦闘機を移動 地域の安全保障支援へ=スタ
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:非婚化する世界
特集:非婚化する世界
2025年6月17日号(6/10発売)

非婚化・少子化の波がアメリカもヨーロッパも襲う。世界の経済や社会福祉、医療はどうなる?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高にかっこいい」とネット絶賛 どんなヘアスタイルに?
  • 2
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波でパニック...中国の輸出規制が直撃する「グローバル自動車産業」
  • 3
    右肩の痛みが告げた「ステージ4」からの生還...「生きる力」が生んだ「現代医学の奇跡」とは?
  • 4
    林原めぐみのブログが「排外主義」と言われてしまう…
  • 5
    サイコパスの顔ほど「魅力的に見える」?...騙されず…
  • 6
    構想40年「コッポラの暴走」と話題沸騰...映画『メガ…
  • 7
    逃げて!背後に写り込む「捕食者の目」...可愛いウサ…
  • 8
    「結婚は人生の終着点」...欧米にも広がる非婚化の波…
  • 9
    4年間SNSをやめて気づいた「心を失う人」と「回復で…
  • 10
    メーガン妃の「下品なダンス」炎上で「王室イメージ…
  • 1
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の瞬間...「信じられない行動」にネット驚愕
  • 2
    大阪万博は特に外国人の評判が最悪...「デジタル化未満」の残念ジャパンの見本市だ
  • 3
    「セレブのショーはもう終わり」...環境活動家グレタらが乗ったガザ支援船をイスラエルが拿捕
  • 4
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 5
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波で…
  • 6
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高に…
  • 7
    ふわふわの「白カビ」に覆われたイチゴを食べても、…
  • 8
    脳も体も若返る! 医師が教える「老後を元気に生きる…
  • 9
    ファスティングをすると、なぜ空腹を感じなくなるの…
  • 10
    アメリカは革命前夜の臨界状態、余剰になった高学歴…
  • 1
    【定年後の仕事】65歳以上の平均年収ランキング、ワースト2位は清掃員、ではワースト1位は?
  • 2
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 3
    日本はもう「ゼロパンダ」でいいんじゃない? 和歌山、上野...中国返還のその先
  • 4
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊…
  • 5
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 6
    大爆発で一瞬にして建物が粉々に...ウクライナ軍「Mi…
  • 7
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 8
    あなたも当てはまる? 顔に表れるサイコパス・ナルシ…
  • 9
    ドローン百機を一度に発射できる中国の世界初「ドロ…
  • 10
    【クイズ】EVの電池にも使われる「コバルト」...世界…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story