最新記事

スポーツ

空手がアラブで200万人に広まったのは、呑んだくれ日本人がシリア警察をボコボコにしたから

2022年1月9日(日)13時00分
小倉孝保(毎日新聞論説委員) *PRESIDENT Onlineからの転載

岡本は童顔だった。体毛も濃くなく、ひげもはやしていない。アラブ世界では成人すると、鼻の下やあごにひげを蓄える習慣がある。ひげは男らしさをアピールする象徴でもある。ひげのない岡本を見て生徒たちは、「がき」と言ってからかうのである。

1週間ほどしても生徒は集まらず、たまにやって来る生徒も真剣に稽古しようとしない。

日本外交官からの小言にも疲れ果てて

岡本は現地の日本人外交官とのやりとりでも疲れ果てていた。岡本の月給は170ドル。ボランティア・レベルでの派遣である。彼は隣国レバノンのベイルートでアラブ人や欧米人相手に空手を個人指導しアルバイト料を稼いでいた。ベイルートには当時、日本食材を売る店があった。毎週、ベイルートで空手を教えた小遣いで日本食材を買ってくるのが楽しみだった。

これに対し大使館から「派遣の条件に反する」と批判が出た。派遣中に他国に出るには大使館への届けが必要で、アルバイトは禁じられている。アラビア語を専門とするある外交官が岡本を目の敵にし、彼のやることなすことに、「岡本君、それはだめだぞ」と厳しく注意していた。

シリアの若者に対する幻滅、自国外交官からの小言、そして、思い描いたように進まない空手指導。岡本はついに帰国を決意した。

「去勢された連中に日本武道の精神を植え付けようと思った自分がばかだった」

岡本は警察学校宿舎で酒をあおっているうちに怒りが増幅されてきた。ビールにアラック(地元の蒸留酒)、ワイン、ウイスキー。ぐいぐいと飲むにつれ気持ちは大きくなる。

日本から持ってきた羽織袴を着ると下駄をはいて外に出た。もう日本に帰ろう。ただ、帰るにしても、自分を小馬鹿にしたあの外交官を許すわけにはいかない。最後にあの男を殴り倒さねばならん。それをせずに帰ったのでは、負け犬がきゃんきゃんと逃げ帰るのと同じだと岡本は思った。

「ふざけた野郎だ。外交官だと思ってお高くとまりやがって」

カランコロン。岡本は外交官が住む地域に向かって下駄の音を響かせた。

外交官の車の窓ガラスを「蹴り」で粉々に

外交官居住区に着いてはみたが、目的の外交官がどこに住んでいるかがわからない。名前を叫び、「出てこい、こらっ」と叫んでみるが、呼ばれた相手が出てくるはずもない。日はすっかり落ち、のどかな残光がダマスカスの街並みを照らしている。岡本のこうした行動を目撃していたただ一人の日本人が貞森裕だった。彼は岡本と同時期に警視庁から柔道指導員として派遣されていた。岡本は外交官が出てこないことにいらだってくる。

「貞森君、あの男(外交官)の車は日産のブルーバードだったよな」
「確か、そうです」

年下の貞森が丁寧に答えるのを聞き、岡本は周囲を探した。ブルーバードが一台停まっていた。プレートを見ると外交官ナンバーである。

「あった、あった。これだ、これだ」

と言うや岡本は窓ガラスに向けて蹴りを入れた。「パーン」。ガラスが大きな音を立てて割れる。

「おっ、貞森君、俺の腕も捨てたもんじゃないな」

岡本は次々と回し蹴りをする。数秒の間にブルーバードの窓ガラスは全部、割れてしまった。

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ビジネス

英中銀が金利据え置き、5対4の僅差 12月利下げの

ビジネス

ユーロ圏小売売上高、9月は前月比0.1%減 予想外

ビジネス

日産、通期純損益予想を再び見送り 4━9月期は22

ビジネス

ドイツ金融監督庁、JPモルガンに過去最大の罰金 5
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:高市早苗研究
特集:高市早苗研究
2025年11月 4日/2025年11月11日号(10/28発売)

課題だらけの日本の政治・経済・外交を初の女性首相はこう変える

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎の存在」がSNSで話題に、その正体とは?
  • 2
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 3
    「これは困るよ...」結婚式当日にフォトグラファーの前に現れた「強力すぎるライバル」にSNS爆笑
  • 4
    虹に「極限まで近づく」とどう見える?...小型機パイ…
  • 5
    NY市長に「社会主義」候補当選、マムダニ・ショック…
  • 6
    「なんだコイツ!」網戸の工事中に「まさかの巨大生…
  • 7
    カナダ、インドからの留学申請74%を却下...大幅上昇…
  • 8
    約500年続く和菓子屋の虎屋がハーバード大でも注目..…
  • 9
    もはや大卒に何の意味が? 借金して大学を出ても「商…
  • 10
    【ウクライナ】要衝ポクロウシクの攻防戦が最終局面…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎の存在」がSNSで話題に、その正体とは?
  • 3
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読み方は?
  • 4
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」は…
  • 5
    【ウクライナ】要衝ポクロウシクの攻防戦が最終局面…
  • 6
    9歳女児が行方不明...失踪直前、防犯カメラに映った…
  • 7
    【クイズ】1位は「蚊」...世界で「2番目に」人間を殺…
  • 8
    「日本のあの観光地」が世界2位...エクスペディア「…
  • 9
    女性の後を毎晩つけてくるストーカー...1週間後、雨…
  • 10
    だまされやすい詐欺メールTOP3を専門家が解説
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    英国で「パブ離れ」が深刻化、閉店ペースが加速...苦肉の策は「日本では当たり前」の方式だった
  • 3
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」はどこ?
  • 4
    かばんの中身を見れば一発でわかる!「認知症になり…
  • 5
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 6
    1000人以上の女性と関係...英アンドルー王子、「称号…
  • 7
    悲しみで8年間「羽をむしり続けた」オウム...新たな…
  • 8
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 9
    【クイズ】日本でツキノワグマの出没件数が「最も多…
  • 10
    お腹の脂肪を減らす「8つのヒント」とは?...食事以…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中