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修羅場はくぐったがピアノは未経験、50代でABBAを弾いた...ただそれだけの経験が人の心を打ったのはなぜ?

2025年5月16日(金)16時30分
鈴木智彦

そのうちの一本が『マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー』だった。第一作同様、全編ABBAのヒット曲を使ったミュージカル映画だ。

娘の結婚式に、父親かもしれない三人の男性――母親の元彼たちが参集する。前作の主人公だった母親は亡くなっており、娘はこの父親(かもしれない男性)たちに助けられながらトラブルを乗り越え、母親の残した小さな島のホテルを改装してオープニングパーティを開く......正直、たわいない内容で、凝ったストーリー展開も、目を見張るようなアクションも、どんでん返しもない。

親子の情という泣きの旋律を刺激されても、この程度で涙を流せるほどウブでもない。普段、暴力団というアクの強い題材を取材しているのだ。正常位ではイケない。

ABBA『ダンシング・クイーン』に涙腺が故障

ところがABBAのスマッシュ・ヒットである『ダンシング・クイーン』が流れた時、ふいに涙が出た。というより、涙腺が故障したのかと思うほど涙が溢れて止まらない。すぐに鼻水も出てきて、嗚咽(おえつ)が止まらず、なにが起きたのか把握できなかった。けっこうな声で泣いたのだろう、数列前に座っていたカップルが、何事かとばかりこちらを振り返る。

必要以上に映画をくさして恐縮だが、このシーンも幼稚な演出のどうでもいい場面だった。決して映画で感動したのではない。『ダンシング・クイーン』の歌詞もわかっていない。なにしろ英語は、単語を認識する程度しかわからない。

魂の奥底に入り込んだのは、紛れもなく音楽そのもの......ABBAのメロディーとリズムとハーモニーだった。特に特徴あるピアノの旋律が直接感情の根元を揺さぶった。

〈ピアノでこの曲を弾きたい〉

雷に打たれるようにそう思った。身体が音楽で包まれていた。ライターズ・ハイの精神状況で心の箍(たが)が外れており、外界の刺激に鋭敏だったせいではある。実際、音楽が耳からだけではなく、全身を通して身体に入り込み、肌が粟立つような感覚があった。ミュージシャンの一部が感覚のブースターとしてマリファナやドラッグを愛好する理由がわかる。音楽を取り込むチャクラが開いていた。俺は間違いなく覚醒し、トランスしていた。

ガキの頃からそれなりに音楽は好きで、ロックやポップスのミュージシャンには一家言あるつもりだった。

なのにABBAで。
まさかABBAで。


鈴木智彦(すずき・ともひこ)

1966年、北海道生まれ。日本大学藝術学部写真学科除籍。雑誌・広告カメラマンを経て、ヤクザ専門誌『実話時代』編集部に入社。『実話時代BULL』編集長を務めたのち、フリーに。現在は週刊誌や実話誌を中心に暴力団関連記事を寄稿する。

趣味は料理と自転車(愛車はランドナー)。2018年10月、未経験でピアノを習いはじめる。2019年12月、ピアノ教室主催の発表会に出演し、ABBA『ダンシング・クイーン』を演奏する。著書に『サカナとヤクザ 暴力団の巨大資金源「密漁ビジネス」を追う』(小学館)、『潜入ルポ ヤクザの修羅場』(文春新書)、『ヤクザと原発 福島第一潜入記』(文春文庫)など多数。溝口敦氏との共著に『教養としてのヤクザ』(小学館新書)がある。

◇ ◇ ◇

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