コラム

ロンドン暴動の闇、ミンゲラ監督の遺言

2011年08月17日(水)11時53分

 アンソニー・ミンゲラ監督といえば、代表作の『イングリッシュ・ペイシェント』をはじめ、『リプリー』、『コールド・マウンテン』など独自の美学に貫かれた作り込みが特徴的でした。特に、この3作の場合は、撮影監督のジョン・シールが創りだす彩度を高めた人工的な光と影の空間、ガブリエル・ヤレドの砂糖菓子のように甘い音楽が、監督自身の筆による凝りに凝った脚本との相乗効果を発揮していた、その総合映像芸術としての成果は長く語り継がれていいと思います。

 そのミンゲラ監督は、2008年に惜しくも54歳の若さで他界しています。ケイト・ウィンスレットがオスカーの主演女優賞を取った『愛を読むひと』のプロデュースが遺作となりました。そのミンゲラ監督に、2006年に『こわれゆく世界の中で(原題は "Braking and Entering")』という作品があります。監督としては最後の作品で、遺作ということではこちらを挙げるのが正しいのかもしれません。

 ネタバレになりますが、多少内容をご紹介しますと、主人公はジュード・ロウ(『リプリー』『コールド・マウンテン』に続く監督とのコンビ)の演ずるウィルというロンドンのいわばエリート建築家という設定です。ロウには、同棲中のスウェーデン人のリブ(ロビン・ライト)とその娘という家族がいますが、リブの娘は自閉症で、その母娘の緊密な関係性にウィルはなかなか入り込めていません。

 そんな中、ウィルの勤務しているロンドンの都市再開発プロジェクトのオフィスに空き巣が入り、高価なコンピュータなどが何台も盗まれてしまいます。侵入盗の犯人は、アナーキーな十代のグループに属するボスニア移民の少年ミロでした。独自の調査で犯人を突き止めたウィルは、ミロの家庭に入り込む中で、その母親であるアミラ(ジュリエット・ビノシュ)と関係を持ってしまいます。

 やがてリブの母子関係、アミラの母子関係という2つの濃密な関係性から疎外される中で、主人公ウィルの孤独感と、それでも他者と関わってゆこうという人間の「つながり」の可能性が描かれてゆく・・・。そんな作品です。前3作と同様に、脚本は監督自身が精緻に仕上げ、音楽はヤレドが担当しています。ですが、この作品、世評は芳しくありませんでした。それどころか、興行的には英米両国併せても300万ドル(2億4千万円)にも届かないという大失敗となっています。

 多くのメディアが、ミンゲラ監督の遺作としては『愛を読むひと』の方を挙げているのには、この『こわれゆく世界の中で』が失敗作という烙印を押されているからだと思われます。『愛を読むひと』に関しては、本来はミンゲラ監督自身がメガホンを執る予定が、自身の死によって叶わず、結果的にプロデューサーという扱いになっているという特殊事情もあります。そんなわけで、この『こわれゆく世界の中で』は監督としては最後の作品なのですが、ほぼ忘れ去られた格好になってしまっていました。

 酷評の理由は単純です。ボスニア移民の少年ミロのアナーキーな反社会性に、誰もリアリティーを感じなかったからです。平然と深夜のオフィスに忍び込んで高価なコンピュータを盗み出す、その凶悪さを紹介しながら、出自をボスニア移民だという設定にして、しかも母親は苦労してその子を育てているがロンドンの下層で苦労しているという全体のイメージが、ミンゲラ監督の「ドラマチックな設定のために人工的に創り上げた不幸」という風に思われたからでした。

 ネットに残っているNYタイムス、LAタイムスをはじめ、メジャーな評論家たちの観点はほとんど同じで、ミンゲラ監督が脚色ではなくオリジナルのストーリーとして創り上げたということも含めて、散々な評価となっていたのです。9・11後の、そして英国が米国と一緒にイラク戦争を遂行している時代、そして2005年7月7日のロンドンテロの直後という時期にあって、「不幸な下層」としてパキスタンや中東の出身者ではなく、ボスニア人を取り上げたことも見る側がリアリティーを感じなかった原因でしょう。

 仮に窃盗犯のミロを英国人の若者に設定すれば、階級社会としての「ニート」の問題が深刻化していることへの告発にもなったかもしれません。ですが、そうでもないわけで、結果的にミンゲラ監督は「リアリティのない不幸」を設定したという感覚になり、それが「空虚なリベラリズム」そして「チープな不倫話をよりチープにした」という印象になっていったわけです。正直申し上げて、私もそれに近い第一印象を持ってしまっていました。

 ですが、映画の制作から5年、ミンゲラ監督の死去から3年を経て発生した今回のロンドンの暴動は、正にこの映画のミロ少年のような、思想的な背景も宗教的な背景もない、ただ英国の社会から疎外されたアナーキーな若者の存在を見せつけました。そして、問題の根にあるのは、資質や文化の問題ではなく、関係性の問題だということもです。

 事件の後で映画を観ると印象が全く変わってしまったのには驚きました。人工的なキャラクターと思われたミロ少年の背後に、絶望を抱えた多くの若者の存在をリアリティとして感じてしまうと、映画の全てのシーン、全てのセリフが全く異なった重みを持って迫ってくるのです。この問題は、背景への知識や理解が映画の評価に与える影響という難しい問いを突きつけてきます。

 それはさておき、イタリア系スコットランド人としてマイノリティの感覚を持っていたミンゲラ監督には、2005年の時点で、こうしたエスニック・マイノリティの若者の抱えた「闇」とその根底にある英国社会の「関係性の病」が見通せていたわけです。その才能への感嘆、氏を失った喪失の思い、そして何よりも氏のメッセージを当時は受け止められなかったことへの悔いを痛切に感じざるを得ません。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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