コラム

改革開放の「真実」はどこにあるのか――閻連科『炸裂志』を読む

2017年01月11日(水)18時23分

本の出版後、「炸裂」がよく使われるようになった

 そもそも本書の「炸裂志」というタイトルが極めて興味深い。

「炸裂」という言葉は、閻連科が韓国旅行中に偶然、ある場所でたまたま見かけたポスターにあった「炸裂」という2文字からヒントを得たものだ。改革開放後の中国社会を描き出す本作の構想を練っていた閻連科は「これだ」と直感し、小説のタイトルとした。炸裂は架空の地名ではあるが、そこには、経済優先主義によってばらばらに解体された人間関係、モラル、社会階層、倫理といったすべての事象を表現する比喩が込められている。

「炸裂という2文字のなかで、比較的私が重視するのが『裂』の方です。この文字は、中国人の人心や社会の分裂を示しています。炸裂という言葉は、この本の出版(注:中国では2013年)によって非常によく使われる言葉になり、メディアでも盛んに引用されました。また『炸』という言葉は中国の急速な成長を象徴しています」

「例えば」といって、閻連科はこんな事例を紹介した。

「中国では、毎日、我々が思いもつかないことが起きています。一人の老人が倒れていて、誰も助けに行かないのです。助け起こそうとしたら、お前がぶつかって倒れたのだから金をよこせと言われる。こういうことが一度ならずと起きると、以後、中国人は道で倒れている老人を助けなくなりました。これこそ人心が完全に炸裂してしまったケースです」

 中国語で「志」とは、歴史のことであり、「炸裂志」とは、炸裂という土地が歩んだ歴史、ということになる。閻連科も、小説のなかに登場する。大金につられて執筆を引き受けた有名作家。だが、作家の良心として「真実」を書くことに徹した。だが、その内容は炸裂の人々が望んだものではありえない。そこに「権力」と「芸術(または文学)」の緊張関係を強く意識し、「権力や市場と一線を引くべきだ」というベテラン作家の気概を見るのである。

 閻連科という人間には、中国文人の伝統すら感じるほどの温かみと成熟が漂っている。エッセイ『父を想う――ある中国作家の自省と回想』(河出書房新社)で見せた伝統的な「善」へのこだわり。代表作『愉楽』(河出書房新社)で見せる破天荒な想像力。『四書』で見せた痛烈な権力批判。それらのエッセンスを統合し、注ぎ込んだのが、本作であるとも言えるだろう。そして、練達の中国語翻訳家、泉京鹿の訳が、とても巧みに原文の筆致を伝えている。日本語で解説含め45万字以上の大著だが、読み進める苦痛はない。

【参考記事】講談社『中国の歴史』も出版した中国の「良心的出版人」が消えた

プロフィール

野嶋 剛

ジャーナリスト、大東文化大学教授
1968年、福岡県生まれ。上智大学新聞学科卒。朝日新聞に入社し、2001年からシンガポール支局長。その間、アフガン・イラク戦争の従軍取材を経験する。政治部、台北支局長(2007-2010)、国際編集部次長、AERA編集部などを経て、2016年4月に独立。中国、台湾、香港、東南アジアの問題を中心に執筆活動を行っており、著書の多くが中国、台湾でも翻訳出版されている。著書に『イラク戦争従軍記』(朝日新聞社)『ふたつの故宮博物院』(新潮選書)『銀輪の巨人』(東洋経済新報社)『蒋介石を救った帝国軍人 台湾軍事顧問団・白団』(ちくま文庫)『台湾とは何か』『香港とは何か』(ちくま新書)。『なぜ台湾は新型コロナウイルスを防げたのか』(扶桑社新書)など。最新刊は『新中国論 台湾・香港と習近平体制』(平凡社新書)

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏の出生権主義見直し、地裁が再び差し止め 

ワールド

米国務長官、ASEAN地域の重要性強調 関税攻勢の

ワールド

英仏、核抑止力で「歴史的」連携 首脳が合意

ビジネス

米エヌビディア時価総額、終値ベースで4兆ドル突破
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:大森元貴「言葉の力」
特集:大森元貴「言葉の力」
2025年7月15日号(7/ 8発売)

時代を映すアーティスト・大森元貴の「言葉の力」の源泉にロングインタビューで迫る

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「弟ができた!」ゴールデンレトリバーの初対面に、ネットが感動の渦
  • 2
    トランプ関税と財政の無茶ぶりに投資家もうんざり、「強いドルは終わった」
  • 3
    日本企業の「夢の電池」技術を中国スパイが流出...APB「乗っ取り」騒動、日本に欠けていたものは?
  • 4
    シャーロット王女の「ロイヤル・ボス」ぶりが話題に..…
  • 5
    名古屋が中国からのフェンタニル密輸の中継拠点に?…
  • 6
    アメリカの保守派はどうして温暖化理論を信じないの…
  • 7
    犯罪者に狙われる家の「共通点」とは? 広域強盗事…
  • 8
    アメリカを「好きな国・嫌いな国」ランキング...日本…
  • 9
    【クイズ】日本から密輸?...鎮痛剤「フェンタニル」…
  • 10
    昼寝中のはずが...モニターが映し出した赤ちゃんの「…
  • 1
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...父親も飛び込み大惨事に、一体何が起きたのか?
  • 2
    「弟ができた!」ゴールデンレトリバーの初対面に、ネットが感動の渦
  • 3
    日本企業の「夢の電池」技術を中国スパイが流出...APB「乗っ取り」騒動、日本に欠けていたものは?
  • 4
    後ろの川に...婚約成立シーンを記録したカップルの幸…
  • 5
    シャーロット王女の「ロイヤル・ボス」ぶりが話題に..…
  • 6
    「やらかした顔」がすべてを物語る...反省中のワンコ…
  • 7
    「本物の強さは、股関節と脚に宿る」...伝説の「元囚…
  • 8
    「飛行機内が臭い...」 原因はまさかの「座席の下」…
  • 9
    為末大×TAKUMI──2人のプロが語る「スポーツとお金」 …
  • 10
    職場でのいじめ・パワハラで自死に追いやられた21歳…
  • 1
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 2
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 3
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事故...「緊迫の救護シーン」を警官が記録
  • 4
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 5
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 6
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
  • 7
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 8
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 9
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
  • 10
    「うちの赤ちゃんは一人じゃない」母親がカメラ越し…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story