コラム

貧富を「高低差」で描いた『パラサイト』は、黒澤明の『天国と地獄』から生まれた?

2021年08月19日(木)17時35分

ILLUSTRATION BY NATSUCO MOON FOR NEWSWEEK JAPAN

<丘の上の豪邸を見上げるスラム街の若者──『パラサイト 半地下の家族』で格差の暗喩に高低差を使ったポン・ジュノは、きっと黒澤の『天国と地獄』を見ていたのだろう>

大学2年のとき、映画研究会のOBからCM制作会社でバイトをしないかと誘われた。青山にあった小さな会社の名称はトム企画。社員数人だったけれど仕事は忙しい。この数年前に野坂昭如が歌いながら踊るサントリーゴールドのCMが大きな評判になった。それがトム企画の制作だった。読者がもしも50代以上なら、「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか」の歌詞と聞けば、あああれか、と思い当たるかもしれない。

立場はバイトだけど、多くの撮影現場に雑用として行かされた。サントリーゴールドのCM第2弾の撮影のとき、カメラの前で野坂は実際にウイスキーを飲んでいた。紅茶などでごまかさない。何度もテイクを重ねて泥酔した野坂は、スタジオの隅で腕組みして撮影を見つめていた年配の女性に駆け寄りながら「ノガミさん!」と甘えるように何度も名前を呼んだ。天下の野坂が懐っこい猫のようになっている。ディレクターにあの女性は誰ですかと聞いたら、野上さんだよ、おまえ映研のくせに知らないのかとあきれられた。

野上照代。トム企画に制作を発注した広告代理店サン・アドのプロデューサーであると同時に、黒澤明監督の作品の多くにスクリプター(記録係)として参加していて、製作のパートナーと言っても過言ではない女性だ。

このときの僕は彼女の偉大さをよく理解していなかった。休憩時間に黒澤さんってどんな方ですか、と気安く聞いた。少し考えてから野上は「一口に言えないけれど優しい人よ」と答えた。優しくなければ映画なんか作れないわよ、と言われたような気もする。

前書きが長くなった。僕が野上と一瞬だけ出会った頃の黒澤は、ロシア(当時はソ連)の国営映画会社モスフィルムの全面的なバックアップで製作した『デルス・ウザーラ』と超大作『影武者』の間の時期だった。出来についてはどちらも微妙だ。何だろう。悪い意味で大味なのだ。

名画座で『天国と地獄』を見たのはこの時期だ。身代金を要求される会社重役の役として、野武士顔の三船敏郎はミスマッチだ。でも誘拐されたのが自分の子供ではなく運転手の子供だと気付いた後も、身代金を払う決意は変わらない。不思議なキャラクターだ。冷酷なのか優しいのか分からない。

プロフィール

森達也

映画監督、作家。明治大学特任教授。主な作品にオウム真理教信者のドキュメンタリー映画『A』や『FAKE』『i−新聞記者ドキュメント−』がある。著書も『A3』『死刑』など多数。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

マスク氏、FRBへDOGEチーム派遣を検討=報道

ワールド

英住宅ローン融資、3月は4年ぶり大幅増 優遇税制の

ビジネス

日銀、政策金利を現状維持:識者はこうみる

ビジネス

アルコア、第2四半期の受注は好調 関税の影響まだ見
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
2025年5月 6日/2025年5月13日号(4/30発売)

「ゼロから分かる」各国・地域情勢の超解説と時事英語

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に高く、女性では反対に既婚の方が高い
  • 2
    マリフアナを合法化した末路とは? 「バラ色の未来が来るはずだったのに...」
  • 3
    タイタニック生存者が残した「不気味な手紙」...何が書かれていた?
  • 4
    ポンペイ遺跡で見つかった「浴場」には、テルマエ・…
  • 5
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 6
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 7
    インド北部の「虐殺」が全面「核戦争」に発展するか…
  • 8
    クルミで「大腸がんリスク」が大幅に下がる可能性...…
  • 9
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 10
    悲しみは時間薬だし、幸せは自分次第だから切り替え…
  • 1
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 2
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 3
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新研究】
  • 4
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 5
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドロ…
  • 6
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 7
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 8
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 9
    ポンペイ遺跡で見つかった「浴場」には、テルマエ・…
  • 10
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 5
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 6
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 7
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 8
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 9
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
  • 10
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story