コラム

エスカレーター「片側空け」の歴史と国際比較

2019年05月09日(木)11時46分

駅のエスカレーターを保有し、管理しているのは鉄道会社なので、鉄道会社が求める乗り方は、いわばエスカレーターの乗り方に関する「法律」だということになる。ロンドンやサンパウロで乗客たちが右側に立つのはそれが法律だからだが、東京では慣習(片側空け)が法律(2列で立って乗ること)を圧倒している。

なぜこの慣習が法律を上回る強制力を持っているかは、試しに東京でエスカレーターの右側に立ってみればよくわかる。後からエスカレーターを上ってくる人が威嚇するように足音を立てて迫ってくる。時には無言でぐいぐい押されることもある。これらはいずれも私自身の体験だが、新聞記事によると突き飛ばされたり、怒鳴られたりすることもあるようだ。

後ろから押したり怒鳴ったりする人はどういう心理なのだろうか。当然先を急いでいるのかと思いきや、そうでもないらしいと思うことがけっこうある。おそらく高速道路の追い越し車線であおり運転をする心理と似ているのではないか。

自動車を運転しない読者のために解説しておくと、「あおり運転」とは前を走る車に対して「速く行け」とか「どけろ」という意思を伝えるために車間距離を詰めてプレッシャーをかける行為をいう。あおり運転をせずとも、空いている車線を使って前の車を追い抜くことは可能なので、あおっている人たちの動機は先を急ぎたいということではないようだ。

エスカレーターの「道徳自警団」

中国では、タクシーなどプロの運転手のなかにはクラクションを鳴らしたり、パッシング(ヘッドライトをチカチカさせること)をしたりして前の車をどかそうとする人はいるが、効果がないとなれば空いている車線を使ってさっさと追い越していく。日本と同じように、高速道路の中央寄り車線は追い越し車線と定められているのだが、実際には、急ぐ車は通常の車線でも空いていれば追い越しに使う。

それに対して日本では少なからぬ運転手が先を急ぐためというよりもむしろ追い越し車線で前をふさぐ車を懲らしめるためにあおり運転をしているように見える。古谷経衡氏は他人の不道徳をネット上などであげつらう人々を「道徳自警団」と呼ぶが(古谷経衡『「道徳自警団」がニッポンを滅ぼす』イースト・プレス)、高速道路の追い越し車線であおり運転をする人はいわば路上の道徳自警団、エスカレーターの右側に立つ人を突き飛ばしたり怒鳴ったりする人はエスカレーター上の道徳自警団だと思えば、その一見不合理な行動にも合点がいく。

エスカレーターの道徳自警団はごく少数ではあるものの、彼らによって植え付けられた恐怖が首都圏じゅうのエスカレーターを支配し、乗客たちは誰も上がってくる人がいなくても律儀に片側を空けて乗っている。

プロフィール

丸川知雄

1964年生まれ。1987年東京大学経済学部経済学科卒業。2001年までアジア経済研究所で研究員。この間、1991~93年には中国社会学院工業経済研究所客員研究員として中国に駐在。2001年東京大学社会科学研究所助教授、2007年から教授。『現代中国経済』『チャイニーズ・ドリーム: 大衆資本主義が世界を変える』『現代中国の産業』など著書多数

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