コラム

コロナ禍で聖域化に拍車がかかる英医療制度NHSにもの申す

2020年11月07日(土)10時15分

コロナ以降、NHSは不可侵の存在に JASON CAIRNDUFF-REUTERS

<あらゆる国営企業の民営化を図ったサッチャー政権でさえ手を付けなかったNHS。その超越ぶりはコロナでさらに際立っている>

僕の住む町の周囲には点々と、ダブルスタンダードな記念碑が設置されている。木枠のフェンスが数カ所に設置され、コロナ禍で働く国民保健サービス(NHS)の医療従事者に感謝のメッセージをしたためたパドロック(南京錠)を掛けよう、というものだ。賛同者は地元の店で南京錠を購入し、売り上げは地元の病院に贈られることになっている。

4カ月にわたり、記念碑は見るも哀れな姿をさらしている。日々何千人もが行き交うショッピングセンターに置かれた1つは、10個ほどの錠が付いているだけ【写真1】。でも近くの公園の、2個しか付いていないものに比べればまだマシだ【写真2】。

magcom1106_NHS1.jpg

【写真1】 筆者撮影

magcom201106_NHS2.jpg

【写真2】 筆者撮影

イギリス中の誰もが、NHSスタッフは万全の支援を受けるに値するし、直ちに賃上げすべき英雄たちである、と口をそろえるだけに、この記念碑はダブルスタンダードだ。ロックダウン(都市封鎖)の最中には毎週木曜午後8時に、NHS従事者に感謝の拍手を送る運動が広がった。お祭り的な雰囲気があり、多くの歓声と拍手が響いた。でも、実際にカネを出せとなると話は違ってくる。

この南京錠キャンペーンは単にうまく流行に乗れなかっただけ、と見ることもできるし、99歳の退役大尉のキャプテン・トム・ムーアが歩行補助器につかまって自宅庭を往復しながらNHSへの支援を呼び掛けた運動は大きなうねりを呼んで巨額の資金を集めたじゃないか、と指摘する向きもあるだろう。個人的には、ムーアの運動に資金を提供した人々は、ムーアがテレビで取り上げられ王室やセレブが賛同し始めるなかで、自分も「キャプテン・トム現象」の波に乗りたかっただけなのだろうと思う。

各種調査では人々は、たとえ税金が上がることになっても政府はNHSにもっと資金を投入してほしいと常に答える。だがイギリス第3政党の自由民主党が2017年のマニフェストでNHS資金用に所得税のわずかながらの税率アップを提案しても、総選挙で大きな支持は得られなかった。人々のNHS支援はあくまで「理屈の上」か、あるいは誰かほかの人がカネを払うならいいけど、というものなのだ。つまり、NHSは医療需要が増大するなかでも資金不足のままであることを意味している。

いかなる政権も改革が許されない

NHSはイギリス社会で独特の位置を占めている。NHSは第2次大戦後の最初の労働党政権の産物で、その原点は際立って社会主義的だ。それでも今では各党がNHS支援を誓い、党派政治を超えた存在になっている(NHS保護に最も熱心なのはわが党だと、各党が競っている側面はあるが)。あらゆる国営企業の民営化を図ったサッチャー政権でさえ、国営医療制度の原則には手をつけなかった。

その理由は、欠点はあれどNHSが全体としてはうまくいっているからだ。全国民にあまねく良質な医療を適正な費用で提供できている。NHSは「受診時無料」であり、これは診察を受けたり救急医療を受けたり深刻な疾患を治療したりしても支払いはゼロで、薬もごく少額か無料なことを意味する。そして、(大ざっぱな一般論かもしれないが)医師や看護師は皆、熱心に患者を見てくれているように思う。

プロフィール

コリン・ジョイス

フリージャーナリスト。1970年、イギリス生まれ。92年に来日し、神戸と東京で暮らす。ニューズウィーク日本版記者、英デイリー・テレグラフ紙東京支局長を経て、フリーに。日本、ニューヨークでの滞在を経て2010年、16年ぶりに故郷イングランドに帰国。フリーランスのジャーナリストとしてイングランドのエセックスを拠点に活動する。ビールとサッカーをこよなく愛す。著書に『「ニッポン社会」入門――英国人記者の抱腹レポート』(NHK生活人新書)、『新「ニッポン社会」入門--英国人、日本で再び発見する』(三賢社)、『マインド・ザ・ギャップ! 日本とイギリスの〈すきま〉』(NHK出版新書)、『なぜオックスフォードが世界一の大学なのか』(三賢社)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、「ゴールデン・ドーム」詳細発表か 東部

ワールド

マスク氏、政治献金削減へ テスラCEOあと5年継続

ワールド

中国、WHOに今後5年間で5億ドル追加拠出へ 米に

ワールド

トランプ氏「対応を検討中」、EU・英の対ロシア追加
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:関税の歴史学
特集:関税の歴史学
2025年5月27日号(5/20発売)

アメリカ史が語る「関税と恐慌」の連鎖反応。歴史の教訓にトランプと世界が学ぶとき

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    【定年後の仕事】65歳以上の平均年収ランキング、ワースト2位は清掃員、ではワースト1位は?
  • 2
    コストコが「あの商品」に販売制限...消費者が殺到した理由とは?
  • 3
    【クイズ】世界で1番「太陽光発電」を導入している国は?
  • 4
    【クイズ】EVの電池にも使われる「コバルト」...世界…
  • 5
    「空腹」こそが「未来の医療」になる時代へ...「ファ…
  • 6
    【裏切りの結婚式前夜】ハワイにひとりで飛んだ花嫁.…
  • 7
    中ロが触手を伸ばす米領アリューシャン列島で「次の…
  • 8
    小売最大手ウォルマートの「関税値上げ」表明にトラ…
  • 9
    日本はもう「ゼロパンダ」でいいんじゃない? 和歌山…
  • 10
    トランプは日本を簡単な交渉相手だと思っているが...…
  • 1
    【定年後の仕事】65歳以上の平均年収ランキング、ワースト2位は清掃員、ではワースト1位は?
  • 2
    日本はもう「ゼロパンダ」でいいんじゃない? 和歌山、上野...中国返還のその先
  • 3
    ワニの囲いに侵入した男性...「猛攻」を受け「絶叫」する映像が拡散
  • 4
    中ロが触手を伸ばす米領アリューシャン列島で「次の…
  • 5
    「運動音痴の夫」を笑う面白動画のはずが...映像内に…
  • 6
    コストコが「あの商品」に販売制限...消費者が殺到し…
  • 7
    【クイズ】世界で1番「太陽光発電」を導入している国…
  • 8
    ヤクザ専門ライターが50代でピアノを始めた結果...習…
  • 9
    トランプ「薬価引き下げ」大統領令でも、なぜか製薬…
  • 10
    サメによる「攻撃」増加の原因は「インフルエンサー…
  • 1
    【定年後の仕事】65歳以上の平均年収ランキング、ワースト2位は清掃員、ではワースト1位は?
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    日本はもう「ゼロパンダ」でいいんじゃない? 和歌山…
  • 5
    脂肪は自宅で燃やせる...理学療法士が勧める「3つの…
  • 6
    「2025年7月5日に隕石落下で大災害」は本当にあり得…
  • 7
    【クイズ】世界で2番目に「軍事費」が高い国は?...1…
  • 8
    部下に助言した時、返事が「分かりました」なら失敗…
  • 9
    5月の満月が「フラワームーン」と呼ばれる理由とは?
  • 10
    ワニの囲いに侵入した男性...「猛攻」を受け「絶叫」…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story