コラム

ラマダン大河ドラマが巻き起こす波紋

2012年07月26日(木)22時31分

 ラマダン(断食月)が始まった。ラマダンとは、日の出から日の入りまでの間、飲食を断つイスラーム暦の月で、貧富、貴賤、老若に係わりなく、空腹はすべからく辛いのだと、神の前に人間皆平等という教えを体現した慣習である。今年のラマダン開始は7月20日、暑いのと昼の時間が長いのとで、イスラーム教徒には殊の外、厳しい季節となっている(イスラーム暦は太陰暦なので、一年で10日ずつ早くなるのだ)。

 さぞ過酷な一か月かと思いきや、実はラマダンは多くの庶民が楽しみにする、娯楽の月でもある。日中の断食なので生活が昼夜逆転し、昼はグダグダ、夜は毎晩宴会続き。夜更かし月間なのが、実情だ。

 その娯楽ムードに拍車をかけるのが、毎年ラマダン期間限定で放映されるテレビの大河ドラマだ。どの国、どのチャンネルも、企画制作に投入する資金、人員は、某国日曜の大河ドラマの比ではない。番組ごとの競争も激しく、エンタメ業界先進国として覇を競うシリアが今年は内戦状態で混乱していることから、ライバルのエジプトのドラマ制作業界がほくそえんでいる、などという報道もある。

 そのラマダン大河ドラマで、今年の話題をさらっているのは、なんといっても「正統カリフ、ウマルの生涯」という連載ドラマだろう。サウジアラビア王族がメインの出資者であるMBC(中東衛星放送局)が、鳴り物入りで制作したドラマだが、預言者ムハンマドに続きイスラーム興隆の始祖ともいえる、正統カリフが初めてドラマの主人公になったことで話題となった。

 よく知られるように、イスラームでは偶像崇拝が禁止されている。神や預言者の姿をヴィジュアル化して崇めたり貶めたりすることは、固く禁じられる。本来の教えや意味をそれだけで考えるのではなく、その人のキャラやエピソードばかりに注目するのは本末転倒だ、という発想からなのだが(それはそれで、なるほど納得がいく)、同じ理由で正統カリフ、すなわちムハンマドの後継者たちの人となりも、これまで偶像化されたことはなかった。

 あの超がつく宗教的に保守派のサウジが出資する番組が、第二代カリフ、ウマルをドラマに取り上げるなんて! 主役にはエジプト人俳優、演出にはシリアの演出家が抜擢されたが、その脚本の描写指導を行った宗教学者たちのなかには、ユースフ・カラダーウィがいる。もともとエジプト出身の彼は、カタールに拠点を置き幅広くメディアに登場して説教や法学指導を行う、超人気の宗教指導者だ。9-11事件やイラク戦争の際には、彼の一言一言が中東諸国の人々の世論を左右した、と言われている。

 その衝撃は、エジプトにあるスンナ派イスラームの宗教権威、アズハル機構が、このドラマを禁止するファトワーを出したことからもわかる。そのエジプトでは、イスラーム主義者大統領の誕生を受けて、メディア全般を管轄する情報相にイスラーム主義者が任命されるかどうかと、テレビ業界が自主規制気味だ。ベリーダンサーを主人公にしたドラマでは、その露出度が少~し抑えられたとも言う。

 もっとも、MBCの判断には、政治的判断も透けて見える。第二代カリフのウマルは、スンナ派にとっては「正統」だが、シーア派が初代イマームと信じるアリーにとっては、預言者の後継者争いのライバルだった人物だ。サウジの反シーア派姿勢が表れたテーマと言う向きもある。

 加えて言えば、ウマルはシリアを征服し、イスラーム帝国版図に組み込んだ。混迷極まるシリアで反アサド陣営を支援するサウジの、本音がここに見える・・・とは穿ちすぎだろうが。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

ベネズエラ、米が治安トップに協力打診 反抗なら米に

ワールド

トランプ米大統領、保険各社と近く面会 保険料引き下

ワールド

中間選挙敗北なら「弾劾される」、トランプ氏が共和議

ビジネス

AIG、エーオンのアンダーセン氏を次期CEOに指名
MAGAZINE
特集:AI兵士の新しい戦争
特集:AI兵士の新しい戦争
2026年1月13日号(1/ 6発売)

ヒューマノイド・ロボット「ファントムMK1」がアメリカの戦場と戦争をこう変える

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?【2025年の話題クイズ5選】
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?【2025年の話題クイズ5選】
  • 3
    日本も他人事じゃない? デジタル先進国デンマークが「手紙配達」をやめた理由
  • 4
    「見ないで!」お風呂に閉じこもる姉妹...警告を無視…
  • 5
    トランプがベネズエラで大幅に書き換えた「モンロー…
  • 6
    「悪夢だ...」バリ島のホテルのトイレで「まさかの事…
  • 7
    若者の17%が就職できない?...中国の最新統計が示し…
  • 8
    眠る筋力を覚醒させる技術「ブレーシング」とは?...…
  • 9
    砂漠化率77%...中国の「最新技術」はモンゴルの遊牧…
  • 10
    衛星画像で見る「消し炭」の軍事施設...ベネズエラで…
  • 1
    前進するロシア、忍び寄る限界...勝者に見えるプーチン、その先は袋小路か
  • 2
    中国軍の挑発に口を閉ざす韓国軍の危うい実態 「沈黙」は抑止かそれとも無能?
  • 3
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?【2025年の話題クイズ5選】
  • 4
    「腸が弱ると全身が乱れる」...消化器専門医がすすめ…
  • 5
    眠る筋力を覚醒させる技術「ブレーシング」とは?...…
  • 6
    ウクライナ水中ドローンが、ロシア潜水艦を爆破...「…
  • 7
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 8
    マイナ保険証があれば「おくすり手帳は要らない」と…
  • 9
    アメリカ、中国に台湾圧力停止を求める
  • 10
    世界最大の都市ランキング...1位だった「東京」が3位…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 3
    ウクライナ水中ドローンが、ロシア潜水艦を爆破...「史上初の攻撃成功」の裏に、戦略的な「事前攻撃」
  • 4
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 5
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切…
  • 6
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 7
    「腸が弱ると全身が乱れる」...消化器専門医がすすめ…
  • 8
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指…
  • 9
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入と…
  • 10
    前進するロシア、忍び寄る限界...勝者に見えるプーチ…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story