コラム

「ホーム」のないサッカー・イラク代表

2012年06月15日(金)10時26分

 ワールドカップ・アジア予選で次に日本代表が戦う相手、ということで、イラクの試合に注目しているサッカーファンも多いのではないか。

 そのイラク、今回の予選では「ホーム」地をカタールとして連戦を戦っている。国内の治安が悪く、まだ国際試合を開催することは無理と、昨年秋にFIFAが判断したからだ。イラク側は「北部のクルド地域なら治安も安定しているし、欧米との交易や国際会議開催も盛んになっているから、他国のチームが来ても十分試合はできる」と主張して、本国での試合を申請しているが、なかなか受け入れられない。

 自国でホーム戦ができないので、代わりにホーム地としているのがカタールだ。だが、この判断には、ややこしい政治問題が絡むことになってしまった。というのも、二ヶ月前、イラクのターリク・ハーシミ元副大統領がカタールに亡命、暗殺未遂事件の首謀者としてイラク政府から引渡しを求められたのに、カタールが対応しなかったからだ。

 昨年11月、米軍のイラクからの撤退が着々と進められるなかで、外国公館や政府機関が集中する行政地区(かつてグリーンゾーンと呼ばれていたところだ)で爆破事件が発生した。その後、それがマーリキー首相を狙ったもので、しかもその犯人にはハーシミー元副大統領のボディガードが関与していた、と発表された。12月半ばにはハーシミーに逮捕状が発出され、ハーシミーは北部クルド地域へと逃亡した。

 だが、この一連の流れが単なる刑事事件の追及だと考える人はほとんどいない。現在マーリキー首相率いる与党、イラク法治国家同盟とその連立勢力は、最大のライバル野党、イラキーヤからの挑戦に苦心している。ハーシミー元副大統領は、そのイラキーヤに属する、スンナ派政治家の重鎮だ。

 米軍駐留下ではとりあえず「国民和解」を進める、として野党との衝突を控え気味だったイラク政府だが、米軍撤退とともに、そうした配慮も消えたようだ。ハーシミーが矢面に立ったということは、野党、特にスンナ派政治家のうるさ方を黙らせてしまえ、と現政権が考えて、逮捕状発出を決断したのではないか、と誰しも考える。ハーシミーが逃げ込んだ北部のクルド地方政府も、この与野党対立をどう処理しようかと対応に困り、結局4月にカタールに送り出すことにした。その後ハーシミーはカタールを離れて、トルコに身を寄せている。

 その際、イラク政府は、ハーシミーを匿っているとしてカタール政府への批判を強めた。それだけではない。シリア情勢を巡り、イラク政府は現アサド政権を擁護する姿勢を示しているが、これがサウディとカタールという対シリア強硬派の気に障る。

 さらにカタールは、過激なほど「自由奔放」な報道で有名なアルジャジーラ衛星放送を抱えている。アルジャジーラは米軍のイラク占領を激しく糾弾、赤裸々に米軍の非人道的行為を暴露してきたが、記者がイラクで誤射により命を落としたり、支局を強制的に閉められたりすることは、日常茶飯事だった。つまり、アルジャジーラ、そしてそれをバックアップするカタール政府は、米軍、そしてイラク政府にとって目障りな存在だったのだ。

 そのような状況で、カタールを仮の「ホーム」として世話にならなければならない選手たちの居心地の悪さや、いかばかりか。環境さえ整えば、アジア大会で優勝した経験だってあるイラクチームである。実力はあるのに発揮できない、と、フラストレーションで苛立っているに違いない。
それはどこかしら、「産油大国としてポテンシャルがあるのに、政治がアホだから発展できない」、とイラク人が嘆くイラクの宿命と、重なってみえる。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

タイとカンボジアが攻撃停止で合意、トランプ氏が両国

ビジネス

FRB現行策で物価目標達成可能、労働市場が主要懸念

ワールド

トルコ大統領、プーチン氏に限定停戦案示唆 エネ施設

ワールド

EU、来年7月から少額小包に関税3ユーロ賦課 中国
MAGAZINE
特集:ジョン・レノン暗殺の真実
特集:ジョン・レノン暗殺の真実
2025年12月16日号(12/ 9発売)

45年前、「20世紀のアイコン」に銃弾を浴びせた男が日本人ジャーナリストに刑務所で語った動機とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    デンマーク国防情報局、初めて米国を「安全保障上の脅威」と明記
  • 2
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出を睨み建設急ピッチ
  • 3
    受け入れ難い和平案、迫られる軍備拡張──ウクライナの選択肢は「一つ」
  • 4
    【クイズ】「100名の最も偉大な英国人」に唯一選ばれ…
  • 5
    【揺らぐ中国、攻めの高市】柯隆氏「台湾騒動は高市…
  • 6
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 7
    首や手足、胴を切断...ツタンカーメンのミイラ調査開…
  • 8
    「前を閉めてくれ...」F1観戦モデルの「超密着コーデ…
  • 9
    人手不足で広がり始めた、非正規から正規雇用へのキ…
  • 10
    中国軍機の「レーダー照射」は敵対的と、元イタリア…
  • 1
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした「信じられない」光景、海外で大きな話題に
  • 2
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価に与える影響と、サンリオ自社株買いの狙い
  • 3
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だから日本では解決が遠い
  • 4
    兵士の「戦死」で大儲けする女たち...ロシア社会を揺…
  • 5
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出…
  • 6
    健康長寿の鍵は「慢性炎症」にある...「免疫の掃除」…
  • 7
    デンマーク国防情報局、初めて米国を「安全保障上の…
  • 8
    キャサリン妃を睨む「嫉妬の目」の主はメーガン妃...…
  • 9
    ホテルの部屋に残っていた「嫌すぎる行為」の証拠...…
  • 10
    中国軍機の「レーダー照射」は敵対的と、元イタリア…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 3
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸送機「C-130」謎の墜落を捉えた「衝撃映像」が拡散
  • 4
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした…
  • 5
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 6
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 7
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 8
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 9
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 10
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story