コラム

「サイエンス少年ではなかった」 テニス漬けの学生時代、物理の道選んだのは「変な先生」の影響──野村泰紀の人生史

2025年12月29日(月)11時15分

 先生はご自身の研究も忙しいですし、研究室の運営も特に今年になってからは大変苦労なさっています。でも、ここ1、2年は一般的な啓蒙書もたくさん出版されていますよね。これは何か意図があるのですか。

野村 あまりないです。いや、あると言えばあるんですけど、一番は嫌いじゃないからです。人と話をしたり、人に説明したりするのは、結構好きなんですよ。

じゃあ、なぜ2年前まではそういうことしなかったかと言うと、単に声がかからなかっただけです。僕のことなんて、たぶん誰も知らなかったですから。

それがYouTubeのReHacQ(リハック)という番組で学者を定期的に呼んでるシリーズがあって、たまたま僕がそのうちの1人として出演しました。それがきっかけで旅番組にも出たんですよ。

その2つに出演したあたりから、他の番組にも声をかけられるようになりました。ReHacQには「野村さんの物理の動画が伸びています。人気があります」と言われたので、「じゃあ何回か時間をもらえたら、物理学全般を網羅する話をしますよ」という話になりました。

 そうしたら、その動画シリーズがバズって、メディアがこぞって「この人に話をしてもらわなくては」という感じになったのですね。

野村 頼まれたら基本的にNOとは言わないですから。

 本を書くのも全然苦にならないのですか。

野村 そんなことはありません。本は本当に大変です。数式は使わないでと言われますが、数式を使ったほうが分かりやすい場合もあると思います。それに僕は筆が遅いので、全部自分で書いた本は3年かかりました。インタビューを元にした本も、手を入れるので時間はかかりますが、1から自分で書くのよりは速いですね。

非専門家向けに伝える難しさ

 一般向けの物理の本を作る時に、先生が特に気を配っていることは何ですか。

野村 用語ですね。用語で混乱して分からなくなることは結構多いんです。僕ら物理学者は同じ単語を似た概念に使うことがあります。エントロピーとか、宇宙のインフレーションとか。

ちょっとずつ違うものを全部同じ単語で言っているのですが、僕らは文脈で使い分けられます。でも、一般の方には「この単語はこの意味だけだ」というふうに思われてしまいがちです。

たとえば「ビッグバン」という言葉もそうです。昔は、宇宙が始まる瞬間にはすごく温度が高かったと考えられていたので、その状態をビッグバンと呼びました。

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ニューズウィーク日本版-YouTube

でも最近の理論では、宇宙の温度が上がる前にインフレーションと呼ばれる急激な膨張をする時期があって、その時期には温度が実質ゼロだったと考えられています。一瞬のうちに原子核のサイズが今観測している宇宙全体に広がるみたいな指数関数的な急膨張です。そして、この急膨張が終わる時に、それを引き起こしているエネルギーが熱エネルギーに変換されて、宇宙は高温高密度になりました。今では、高温高密度の状態ということで、この時点をビッグバンと呼ぶ人が多いです。

つまり「インフレーションの後にビッグバンが始まる」という使い方をする人もいるし、もともとの「宇宙の本当の始まり」という意味でビッグバンという言葉を使う人もいるのです。

 ビッグバンが起きたのはインフレーションの前なの? 後なの? と混乱しそうです。

野村 サイエンスで用語が混乱する主な理由は、全てが一気には分からないからです。物事は徐々に分かっていきますから。もともとは高温高密度だと思った宇宙の始まりをビッグバンと呼ぶことから始まったのですが、後の理解で宇宙の始まりと高温高密度が始まった時点がずれてしまったのです。

 宇宙論は一般の方にも人気のテーマなので本を手に取る人も多いと思いますが、著者によってビッグバンの意味が違うとしたら訳が分からなくなりそうですね。

野村 インフレーションという用語も同じで、マルチバースだと「僕らの宇宙の外」や「僕らの宇宙が始まる前」にもインフレーションは起こっています。でも、かつてはインフレーションと言えば「僕らの宇宙の中」で起こったインフレーションのことでした。

だからその感覚でいると、「宇宙の外でインフレーションが起こる」などという記述に出会うと「インフレーションは宇宙が始まった後にその中で起こることなのに、外で起きているってどういうこと?」などと混乱してしまいます。

用語の意味が分かれたり拡張されたりしたときには、その用語をどう使っていくかを定義し直さなくてはならないはずなのですが、ずっと使い続けていた人は自分の用法を捨てたくないですからね。そこで複数の用法が生まれたりしてしまうんです。

 たとえばアメリカ物理学会が主導して、用語の定義を整理したりはしないのですか?

野村 やろうとしてもエスペラント語のようになって、誰も普通には使わないでしょうね。もし途中で使用法を変えられたりしたら、それこそ自分の論文どうしの間で矛盾が生まれたりしてしまいますからね。

 では先生は、一般向けの本を書くときも「自分はこういう意味でこの用語を使っていく」と最初の方で定義を説明するようにしているのですか。

野村 はい、1冊の中で何度も言ったりしています。定義をしっかりしておかないと必要のない混乱を生みますから。ただ、読んだときに専門的な文章に見えてまどろっこしく感じる読者もいると思います。でも、僕はそのほうが好きなスタイルですね。

プロフィール

茜 灯里

作家・科学ジャーナリスト。青山学院大学客員准教授。博士(理学)・獣医師。東京大学理学部地球惑星物理学科、同農学部獣医学専修卒業、東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻博士課程修了。朝日新聞記者、大学教員などを経て第24回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞。小説に『馬疫』(2021 年、光文社)、ノンフィクションに『地球にじいろ図鑑』(2023年、化学同人)、ニューズウィーク日本版ウェブの本連載をまとめた『ビジネス教養としての最新科学トピックス』(2023年、集英社インターナショナル)がある。分担執筆に『ニュートリノ』(2003 年、東京大学出版会)、『科学ジャーナリストの手法』(2007 年、化学同人)、『AIとSF2』(2024年、早川書房)など。

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