コラム

チェルノブイリ原発事故で最大の被害をもたらしたのは放射能ではない

2012年01月05日(木)19時52分

 1986年に当時のソ連で起こったチェルノブイリ原発事故から、昨年で25年。ロシア政府は、25年間の調査をまとめた報告書を出した。これはロシア語でしか発表されていないため、ほとんど知られていないが、重要な教訓を含んでいる。中川恵一氏(東大)の新著『放射線医が語る被ばくと発がんの真実』には、その結論部分が訳されているので紹介しよう。

 事故で死亡したのは、原子炉の消火にあたって急性放射線障害になった作業員134人のうち28人。さらに22人が、2010年末までに死亡した。これをすべて含めても直接の死者は50人であり、これ以外に急性被曝による死者は確認されていない。

 ただ放射能に汚染された牛乳を飲んだ子供が5000人にのぼり、そのうち9人が死亡した。これはソ連政府が事故を隠したため、汚染された牧草を食べた牛によって放射能が濃縮され、それを飲んだ子供が10シーベルト以上の高い放射線を浴びたことが原因である。福島の場合、すぐ出荷停止措置がとられたため、子供の被曝量は最大でも35ミリシーベルト。甲状腺癌の心配はない。

 IAEA(国際原子力機関)は90年代に「4000人が慢性被曝で癌になる」と予想し、児玉龍彦氏(東大)は「チェルノブイリで膀胱癌が増えた」と国会で証言したが、これは間違いである。国連科学委員会(UNSCEAR)の調査の行なった被災者53万人の疫学調査でも、小児甲状腺癌以外の癌は増えていない。つまりチェルノブイリ事故の放射能による死者は、59人しか確認されていないのだ。

 ところが事故後、ロシアの平均寿命は1994年には事故前と比べて7歳も下がり、特に高齢者の死亡率が上がった。一部の人々はこれを放射能の影響だと主張するが、死亡率の上昇は原発からの距離に関係なく、むしろ現地のウクライナより遠いロシアのほうが上昇率が大きい。また放射線の影響は癌以外には出ないが、事故後に増えたのは心疾患などのストレス性の病気だった。こうした結果をロシア政府は次のように分析している。


事故処理にあたった最初の数年において見込み違いだったのは、以下のことである。[中略]何年にもわたってチェルノブイリ原発事故が及ぼす社会的・経済的および精神的な影響を何倍も大きくさせてしまったのは、基準値としてセシウム137の汚染度を過剰に厳重に設定した1990年代の法律によるところが大きい。この結果、自然放射線量より低い地域が法的に被災地に含まれることになってしまった。

 チェルノブイリで退去命令が出たのは年間5ミリシーベルト以上で、これは日本の計画避難区域よりきびしい値である。当時のソ連は社会主義の崩壊直前で経済は疲弊していたため、移住を強いられた人々のほとんどは失業し、政府の援助も受けられなかった。結果的に20万人が家を失い、1250人がストレスで自殺し、10万人以上が妊娠中絶したと推定される。ロシア政府の報告書は次のように結論している。


事故に続く25年の状況分析によって、放射能という要因と比較した場合、精神的ストレス、慣れ親しんだ生活様式の破壊、経済活動の制限、事故に関連した物質的損失といったチェルノブイリ事故による社会的・経済的影響のほうがはるかに大きな被害をもたらしていることが明らかになった。

 福島で起こっていることも同じである。放射線量はチェルノブイリよりはるかに低く、年間20ミリシーベルトを上回る地域はもうないのに、政府は住民の反発を恐れて避難民を帰宅させない。「除染してから帰宅させろ」という要望に応じる財源も要員もなく、除去した土を移動させる場所もないため、11万人以上が10ヶ月近く不安な避難生活を強いられている。

 ロシア政府は「チェルノブイリ事故の主な教訓の一つは、社会的・精神的要因の重要性が十分に評価されなかったことである」と指摘し、「この教訓は福島第一発電所の事故にとっても今日的なものだ」と述べている。事故対策の最終目的は放射能を減らすことではなく、人々の被害を減らすことである。微量の放射線にこだわって、これ以上彼らを隔離したままにすることは人道上ゆるされない。

プロフィール

池田信夫

経済学者。1953年、京都府生まれ。東京大学経済学部を卒業後、NHK入社。93年に退職後、国際大学GLOCOM教授、経済産業研究所上席研究員などを経て、現在は株式会社アゴラ研究所所長。学術博士(慶應義塾大学)。著書に『アベノミクスの幻想』、『「空気」の構造』、共著に『なぜ世界は不況に陥ったのか』など。池田信夫blogのほか、言論サイトアゴラを主宰。

ニュース速報

ワールド

原油生産で協調行動必要との認識強まる=OPEC事務

ビジネス

アコーディア・ゴルフの買収断念、MBK 株価上昇で

ビジネス

東京TY傘下の東京都民・八千代・新銀行東京の3行、

ビジネス

アングル:物価3年4カ月ぶり下落幅、日銀目標とかい

MAGAZINE

特集:世界が期待するTOKYO

2016-8・30号(8/23発売)

リオ五輪の熱狂は4年後の東京大会へ── 世界は2020年のTOKYOに何を期待するのか

人気ランキング

  • 1

    歯磨きから女性性器切除まで、世界の貧困解決のカギは「女性の自立」にある

  • 2

    イタリア中部地震、死者少なくとも159人 多くは休暇シーズンの観光客か

  • 3

    麻薬撲滅を注力のフィリピン、密輸問題で中国大使に説明求める

  • 4

    北朝鮮の女子大生が拷問に耐えきれず選んだ道とは...

  • 5

    イタリア中部地震、一夜明け死者数247人に急増

  • 6

    中国、月に有人基地建設を計画:強力レーダーで地球を観測

  • 7

    オリンピック最大の敗者は開催都市

  • 8

    中国で性奴隷にされる脱北女性

  • 9

    リオ五輪閉幕、ブラジルを待ち構える厳しい現実

  • 10

    イタリア中部地震死者250人 48時間経過、懸命の救出作業続く

  • 1

    フィリピンのドゥテルテ大統領が国連脱退・中国と新国際組織結成を示唆

  • 2

    海保の精神は「正義仁愛」――タジタジの中国政府

  • 3

    競泳金メダリストの強盗被害は器物損壊をごまかす狂言だった

  • 4

    北朝鮮の女子大生が拷問に耐えきれず選んだ道とは...

  • 5

    オリンピック最大の敗者は開催都市

  • 6

    リオ五輪でプロポーズが大流行 「ロマンチック」か「女性蔑視」か

  • 7

    リオ五輪、英国のメダルラッシュが炙りだしたエリートスポーツの光と影

  • 8

    【動画】流血の男児映像が映し出す地獄とヒーロー

  • 9

    「ドーピング」に首まで浸かった中国という国家

  • 10

    NSAの天才ハッカー集団がハッキング被害、官製ハッキングツールが流出

  • 1

    北朝鮮の女子大生が拷問に耐えきれず選んだ道とは...

  • 2

    中国衝撃、尖閣漁船衝突

  • 3

    戦死したイスラム系米兵の両親が、トランプに突きつけた「アメリカの本質」

  • 4

    日銀は死んだ

  • 5

    フィリピンのドゥテルテ大統領が国連脱退・中国と新国際組織結成を示唆

  • 6

    【原爆投下】トルーマンの孫が語る謝罪と責任の意味(前編)

  • 7

    トランプには「吐き気がする」──オランド仏大統領

  • 8

    イチロー3000本安打がアメリカで絶賛される理由

  • 9

    海保の精神は「正義仁愛」――タジタジの中国政府

  • 10

    競泳金メダリストの強盗被害は器物損壊をごまかす狂言だった

 日本再発見 「世界で支持される日本式サービス」
 日本再発見 「世界で支持される日本式サービス」
アンケート調査
定期購読
期間限定、アップルNewsstandで30日間の無料トライアル実施中!
メールマガジン登録
売り切れのないDigital版はこちら

MOOK

ニューズウィーク日本版別冊

0歳からの教育 育児編

絶賛発売中!

コラム

パックン(パトリック・ハーラン)

芸人も真っ青? 冗談だらけのトランプ劇場

小幡 績

日銀は死んだ