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イタリア事情斜め読み

ヴィズマーラ恵子|イタリア

マフィアのボス逮捕劇を最新情報でたどるイタリアの闇と戦いの歴史

iStock- JannHuizenga トロイナ、イタリア - 2014年5月1日:トロイナの中央広場の看板、シチリア島は反マフィアの英雄ジョヴァンニ・ファルコーネ裁判官(左)とパオロ・ボルセリーノ裁判官(右)を追悼。二人ともマフィアに暗殺された。反マフィアの治安判事ニーノ・ディ・マッテオへの連帯と支援するもの。

2023年1月16日、イタリア・パレルモで「マッテオ・メッシーナ・デナーロ(イタリアのマフィア組織犯罪集団コーザ・ノストラのボス)を逮捕」のニュース速報が世界中を駆け巡った。
英ガーディアン紙やBBCから米CNN、西エル・パイス紙、仏ル・モンド、そしてアルジャジーラまで、世界中の大手メディアが一斉に「イタリアで指定重要指名手配被疑者であるマフィアのボスがシチリアで逮捕された」と、トップニュースと一面記事で大々的に報じた。
マッテオ・メッシーナ・デナーロは、アメリカの雑誌フォーブスが2008年から2011年にかけて発表した、世界で最も求められている逃亡者10人のリストの中の一人である。

BBC はニュース速報の見出しを付け、ガーディアン紙も同じタイトルで、「コーザ・ノストラのシチリア マフィアのボスとされる人物が30年以上の逃亡の末逮捕」と付け加えていた。

同紙は、デナーロが1992年の反マフィアの裁判官ジョヴァンニ・ファルコーネ氏とパオロ・ボルセリーノ治安判事の殺害、フィレンツェ、ローマ、ミラノでの爆弾攻撃テロ、翌年には10人が死亡した事件でも終身刑を免れないという事件の主犯格であることや、イタリア全土に衝撃を与えた誘拐監禁・殺害事件などに関与したとして、不在のまま終身刑を宣告された欠席裁判についても触れ紹介していた。

イタリア公共放送局RAIのニュース番組TG4公式YouTubeチャンネルより

マッテオ・メッシーナ・デナーロは逮捕から1週間経った今も完全黙秘を貫いている。

そして、逮捕されたとはいえど、「ボスはまだ危険な人物だ」という見出しで、イタリアでは毎日、センセーショナルにマフィアのボス逮捕のニュースが更新され続けている。


⭕️マッテオ・メッシーナ・デナーロは末期癌で余命わずか

コーザ・ノストラのボスであるマッテオ・メッシーナ・デナーロは、腫瘍科の施設で少なくとも1年間治療を受けていた通院歴がある。
現在、結腸の粘液性腺癌の末期で、化学療法治療中であると報道されている。
粘液腺癌は、イタリアの成人の結腸癌全体の約10~20%を占める病気である。
癌がどれくらい進行しているのかという進行度を表す主なものに、ステージとデュークス分類があるが、報告された診断によれば、2020年11月以降、マッテオ・メッシーナ・デナーロは、すでにデュークスC2ステージで、リンパ節にも転移がある。リンパ節腫脹を伴う腸壁を超える浸潤で生存率22%、ステージ3〜4の末期癌であるという。

パレルモのラ・マッダレーナ私立診療所に「日帰りの通院中」のところ、特殊作戦グループ (ROS)により身柄確保をされた。
逮捕時、マッテオ・メッシーナ・デナーロは偽名を使っており、警察に名前を尋ねられた時には、「アンドレア・ボナフェーデです」と答えた。職業は自称オリーブ農園の経営者という設定で通してきた。

1週間後の1月23日に、マフィアのボスに身元の名義貸しをした59歳の測量士であるアンドレア・ボナフェーデ本人が逮捕された。

彼はマッテオ・メッシーナ・デナーロに身分証明書と健康カード(保険証)を渡すだけでなく、逃亡中の隠れ家としてカンポベッロ・ディ・マザーラに家を購入した。ボナフェーデはマッテオ・メッシーナ・デナーロが使用する車も購入し、車の名義は年老いた86歳の母親名前で登録した。(母親は自動車の運転免許証も持っていないが、イタリアでは免許を持たない人でも車の所有主として登録できる。)マッテオ・メッシーナ・デナーロはその車に乗って移動していた。第三の隠れ家付近のガレージでその車、黒いアルファロメオ・ジュリエッタが見つかり押収されたところだ。

ボナフェーデは、マフィアのボスの逃走中の生活費も工面し手助けをしていた。この二人の接点は若い頃からの友人だったという。
マッテオ・メッシーナ・デナーロの運転手であるジュゼッペ・ルッピーノの息子も逮捕。

今日は、ボナフェーデの元妻の両親(元義理の父母)の家が家宅捜索された。元義理の父母は二人とも亡くなっていて、家には誰も住んでいない空き家であるが、昨年の6月までマッテオ・メッシーナ・デナーロがそこに住んでいたことがわかった。

昨日、デナーロが通院していたラ・マッダレーナ私立診療所の看護師らが、マッテオ・メッシーナ・デナーロと一緒に自撮り写真を撮った医師を内部告発した。
まず、この医師は、なぜマフィアのボスと2ショット写真を撮ったのかという理由を説明する必要があるのだが、自慢をしたかったのだろうか、マッテオ・メッシーナ・デナーロの逮捕直後にこの写真を家族や同僚に送りまくり、その瞬間から写真が拡散され、新聞にも掲載される始末となった。
パレルモ医師会は、マフィアのボスとのツーショット写真を撮った医師の懲戒調査を開始した。


⭕️マフィアのボス、30年間の逃亡生活の実態

日が経つにつれて、マッテオ・メッシーナ・デナーロの30年間の逃亡生活がどのようなものだったのか明らかになってきた。

第一アジトの家には二枚のポスターが貼られていた。フランシス・フォード・コッポラの傑作「ゴッドファーザー」のポスターと2つ目は2019年にベネチアで金獅子賞を受賞した映画の主人公、ホアキン・フェニックスのジョーカーを描いたポスター。冷蔵庫の扉には「イル・パドリーノ ソノ・イオ(私はゴッドファーザーです)」と書かれたマグネットが貼られていた。700ユーロ(約9万6,000円)相当分をレストランで食事をした時の領収書と数百万ユーロ相当の宝石なども見つかった。逮捕の2日前に、近所のスーパーマーケットで、ミンチ肉と洗剤の買い物をした11ユーロ(約1500円)のレシートも押収されたので、所持金をあまり持っておらず、どれほど質素な生活をしていたのか伺える。

第一アジトの隠れ家からは、婦人服も数枚見つかっており、愛人の存在が浮上し、現在、警察が女性の身元を追跡している。

第一アジトから300mの場所に、第二のアジトも特定され、警察は隠れ家を公開した。
別荘のように使われていたようで、家の中には高級ブランドの服、香水、大きな宝石、ネックレス、ブレスレット、サングラスや高級シャンパンなどがあった。
ヒトラーに関する本などが数冊、彼が最後に読んだのはプーチンの伝記だったようだと公表された。

マッテオ・メッシーナ・デナーロは、逃亡中にも関わらず海外にも飛んでいたことも判明した。
1994年にスペインのバルセロナに行き、眼科クリニックで手術を受けていた。しかも、偽名ではなく、本名のセカンドネームを名乗りマッテオ・メッシーナで、普通に渡航していた。
重要国際指名手配犯が、スペインだけでなく、南アメリカとイギリスへも行き、悠々自適に海外旅行をしていたということも判明した。
イタリア国内ではシチリアを離れ、ローマやジェノバを旅行した形跡があったという。

こんなに大胆に行動していたのに、なぜ30年間も逮捕できなかったのだろうか。

この捜査の主任を務める主任検察官のマウリツィオ・デ・ルチーア氏と副検察官のパオロ・グイド氏は、さらに強化された護衛とともに、1台ではなく、2台の装甲車で裁判所に到着したというのが今日の最新ニュースであった。
治安判事の周りの警官も増え警戒態勢が突然高まっているところである。


日本では「最後のゴッドファーザー」逮捕などという見出しで、報道されていたようだが、「最後の」・・・いや、そうでもない。
まだゴッドファーザーは他にもたくさんいて、イタリアにはいまだにマフィアが蔓延っているのが現状だ。
イタリアには犯罪組織4大マフィア(ンドランゲタ、コーザ・ノストラ、カモッラ、サクラ・コローナ・ウニータ)がある。

・ンドランゲタ
カラブリア州(特にレッジョ・ディ・カラブリア)を拠点にしている約150団体(約5,200人所属)を擁する、イタリア最大勢力
・カモッラ
カンパーニァ州、(特にナポリ)を拠点とする約130団体(約6300人所属)を擁する
・サクラ・コローナ・ウニータ
プーリア州、'特にブリンディジ、レッチェ、ターラント)を拠点に活動している第4のマフィア型犯罪組織

今回逮捕されたのは、イタリア4大マフィアの一つ「コーザ・ノストラ」のボスである。


⭕️コーザ・ノストラとは

主にイタリアとアメリカ合衆国で活動している秘密結社的犯罪集団、南部シチリア島を拠点としている。
・19世期のシチリアの田舎から
コーザ ノストラの起源は、19世紀のシチリアの農業の現実にある。1812年に封建制度が廃止された後、シチリア島で発展した。土地所有権の大部分がブルジョアジーに譲渡されたため、新しい所有者は領土管理のためにギャングや分隊を組織するようになった。
シチリアの封建領主が農地の全部または一部を違法で暴力的な方法にて搾取していき、彼ら自身の利益だけのために土地と地域の活動を限りなく管理していた組織が成り立ちである。イタリアが統一された後でもシチリアの田園地帯の状況は変わらなかった。
中央政府によるマフィア現象の過小評価は、マフィアが法的機関に侵入することを可能にし、シチリア人はその力を目の当たりにするようになり、マフィアはますます正当化されていった。

・20世紀ファシズムVSマフィア時代
1924 年にムッソリーニが「鉄の首長」と呼ばれる首長のチェーザレ モーリをシチリアに派遣。島の領土からコーザ・ノストラを決定的に根絶するという特別な任務を持ってシチリアへ入ったファシズム政権だが、時間の経過とともに対照的な活動は弱小化していき、ファシスト政権自体にマフィアシステムに隣接し、関連する人々で浸透されていった。

・戦後の混乱を機にマフィアの台頭
1980年代まではマフィア「コーザ・ノストラ」は成長と変容を遂げる。
1943年、英米軍がシチリア島に上陸し、ファシズムが崩壊した。コーザ・ノストラは侵略の機会と混乱を巧みに利用して権力を取り戻し、多くの部下を新しい地方政府に任命し、その場所に定住させた。
戦争直後、シチリアは激動の瞬間を経験し、土地所有権に関する農業問題が強い社会的緊張を生み出していた。1947年5月1日、マフィアの指導者が農民の群衆を鎮圧するために発砲し、11人が死亡した。

・建築産業へ投機でビジネス拡大
1950年代、コーザ・ノストラの活動は田舎から都市へと移動し始め、建設業界とインフラストラクチャーに関する大規模な公共事業契約を牛耳り、地域や国の政治に関わり始め幅広くビジネス展開をして行き、建築投機の象徴となった。

・麻薬密売で組織に莫大な利益
この時期に、マフィアの活動は伝統的なシチリアの地域的次元を超え始め、国の領土の残りの部分と海外に向けて投影していった。建設業に加えてコーザ・ノストラは国際的な麻薬密売に参入。世界の組織犯罪の半分とつながりがあり、経済と金融の重要な部門との関係を通じて違法な収益は洗浄されて行った。(970年〜80年代、コーザ・ノストラは世界の麻薬密売で過半数のシェアを獲得)。

・第一次マフィア戦争勃発
1960年代初頭、敵対する氏族間の最初の戦争が始まり、残虐行為、死傷者多数、またそれに抗議する報復がエスカレートした。

・マフィアと国家とのコントラスト
この段階でも、マフィア、コーザ・ノストラの活動に対し、国家の反応は生温く適切なものではなかった。
1963年に、データとニュースを収集し、マフィア現象と戦うための戦略を提案する任務を負った最初の反マフィア議会委員会が設立されたが、60年代の終わりに、コーザ・ノストラの凶悪指導者が裁判にかけられたが、非常に軽い判決または完全な無罪判決で終っている。公的レベルでは、この現象からもわかるように、過小評価ないしは、沈黙・黙認により、マフィアの存在そのものが依然として疑問視されているか、マフィアはいないと否定されている。
60年代、ここが重要な試練の時だったのはないだろうか。

・第二次マフィア戦争
1980年代初頭、コーザ・ノストラが本物の多国籍犯罪会社になりつつあったとき、その内部では2番目の内部闘争が勃発した。新興の一族は、血なまぐさい戦争の終わりに、なんとか支配権を獲得したのが、史上最も凶悪なファミリーであるコルレオーネジだ。
事実上、コルレオーネジ派が組織を指揮するようになった。

・コルレオネージが国家を強く揺さぶる
1979年から1982年にかけて、コーザ・ノストラが一連の凶悪殺人を犯していく。
機関とその対比に従事する国家の人間に対して、センセーショナルな殺人を犯し、世論に騒動を引き起こし、国家の反応を引き起こした。
犯罪組織の癒着に抗議しマフィアとの戦いに従事した当時のシチリア州知事であるピエールサンティ・マッタレッラ知事がコーザ・ノストラによって暗殺された。このピエールサンティ・マッタレッラ氏は、現在のイタリア共和国大統領セルジョ・マッタレッラ氏の実兄である。
そして、マフィア撲滅の任務を受け、テロリスト※「赤い旅団」の対テロリズム対策情報機関でも活躍した※カルロ・アルベルト・ダッラ・キエーザ将軍もパレルモに入って100日目に妻のエマヌエラ・セッティ・カラロさんと共に暗殺された。
殺されたカリーニ通りの名前をとって「カリーニの虐殺」と言われている。

カリーニ通りの虐殺の40周年を記念して、イタリア国営放送ライ1でカルロ・アルベルト・ダッラ・キエーザ将軍を追悼する特別番組が放送された。

※ダッラ・キエーザ将軍の実話を元にして制作された「One Hundred Days in Palermo」(ペレルモの100日)という映画で詳しく知ることもできる。

※1978年に起きたアルド・モーロ元首相が極左テロリスト集団「赤い旅団」に誘拐され、55日間の監禁の後に殺害された事件については割愛。


・国家をあげて最初の反マフィアプールの誕生
1983年、最初の「反マフィア プール」も作成され、コーザ・ノストラの調査を担当するパレルモの治安判事が集まり、彼らの仕事と情報の共有が促進された。このようにジョヴァンニ・ファルコーネ判事やパオロ・ボルセリーノ判事を含む裁判官のグループが、犯罪組織を徹底的に撲滅するという共通の目標に向けて積極的に協力し始めた。

・マフィアから足を洗ったペンティーティ(元マフィアで悔い改めた人たち)
司法取引で国側の証人となり、捜査協力をしてコーザ・ノストラの犯した事件を暴露したトッマーゾ・ブシェッタが出てきた。こういうペンティート(悔い改め人)は"正義の協力者"という呼び名をされる。
しかし、その背景には、政治や法制度があいまいな関係として残っていたことが分かる。
ブシェッタなどの悔い改め人の自白は、数年後にマフィア組織の主要な指導者の多くに課せられた19の終身刑を含む、一連の非常に厳しい判決を下しすべてを終了できた「パレルモの極大裁判」の確立につながった。
しかし、この疑う余地のない判決結果にもかかわらず、「パレルモの極大裁判」は、コーザ・ノストラと政治との関係を完全に明らかにすることはできず、マスコミと世論がざわついた。

⭕️マッテオ・メッシーナ・デナーロが関与した事件

・1992年から1993年に起きた大爆殺テロで21人が死亡

このあたりから、この度、2023年1月16日に逮捕されたコーザ・ノストラ・マフィアのラスボス、"マッテオ・メッシーナ・デナーロ"容疑者が関与している事件に入る。

まだコーザ・ノストラの撲滅までには程遠い新たな虐殺テロが起こる。有罪判決に反応したマフィアの報復で一連の爆弾攻撃が始まる。
この時代を際立たせたのは、行動の特に暴力的な性質であり、盗難車両に爆弾を詰め込んだものが使用された。イタリアの警察、イタリアの司法当局(ファルコーネ氏とボルセリーノ氏)、政治家(サルヴォ・リーマ氏)だけでなく、ジャーナリストのマウリツィオ・コスタンツォ氏、テレビ司会者など、マフィアとの戦いに直接関与していない人物も攻撃された。

イタリアの文化遺産も爆弾により破壊された。
国家を弱体化させ、攻撃し、恐喝し、政府と市民社会に影響を与えることを目的として、数人のイタリア市民も、国家とマフィアの交渉を実行するための条件を作成した。
しかし、マフィアからの直接の挑戦は激しい反応を引き起こし、秩序の勢力を支援するために軍隊をシチリアに送り、最終的にはコーザ・ノストラの絶対的な首長であったサルバトーレ・リーナの逮捕につながることとなる。

・1992年の爆弾テロ

(1)-ファルコーネ裁判官が暗殺された事件「カパーチの大虐殺」
1992年5月23日にコーザ・ノストラがカパーチ通り近く(フェミーネ島の領土) で実行した爆弾テロ。
攻撃者は17時57分に高速道路A29の一部を爆破し、反マフィア治安判事ジョバンニ・ファルコーネ氏に加えて、他に4人が死亡した。彼の妻フランチェスカ・モルビージョさんも死亡。護衛のヴィート・スキファニ氏、ロッコ・ディシーロ氏、アントーニオ・モンティナーロ氏の代理人。護衛の警察官パオロ・カプッツァ氏、アンジェロ・コルボ氏、ガスパーレ・セルヴェッロ氏も亡くなった。司法運転手ジュゼッペ・コスタンザ氏を含む23人が負傷した事件。

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画像出典:ウィキペディアNowCommons 1992年5月23 日に ジョバンニ・ファルコーネ裁判官、妻フランチェスカ・モルビージョさんとその護衛が死亡したカパーチ虐殺の直後に撮影された画像。

カパーチの大虐殺から57日後、

(2)-パオロ・ボルセリーノ裁判官が暗殺された「ダメリオの大虐殺」
1992 年7月19日に、イタリアのパレルモにあるマリアーノ・ダメリオ通り21番で、シリチアの治安判事パオロ・ボルセリーノ氏他5人の護衛警官、州警察初の女性警官であったエマヌエーラ・ロイさん、アゴスティーノ・カタラーノ氏、、ヴィンチェンツォ・リー・ムーリ氏、ウォルター・エディ・コシーナ氏、 クラウディウス・トレーナ氏も死亡。

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画像出典:ウィキペディアNowCommons 1992年7月19日撮影、ダメリオ通りの虐殺、パレルモ、裁判官パオロ・ボルセリーノとその護衛の殺害


・1993年、フィレンツェ、ミラノ、ローマで死者を出した爆弾テロ事件

(3)-フィレンツェ 「ゲオルゴフィリの大虐殺」
1993 年5月26日から27日にかけての深夜、歴史的なウフィツィ美術館近くのゲオルゴフィリ通りで277kgの爆発物を詰めた自動車爆弾の爆発した。爆発により、ゲオルゴフィリアカデミーの本部であるプルチの塔が崩壊し、交通警察の検査官であるファブリツィオ・ネンシオニ氏と、アカデミーの管理人である妻のアンジェラ フィウメさん、娘のナディア ちゃん(9歳) と塔の3階部分に住んでいたカテリーナちゃん(生後2ヶ月未満)も殺害された。周囲の家々にも延焼し、22歳の大学生ダリオ・カポリッキオ氏も死亡した。約40人の負傷者を出し、ゲオルゴフィリ通りの近くにあったウフィツィ美術館とヴァザーリ回廊のいくつかの部屋にも深刻な被害を与えた。存在する芸術作品の25%が損傷した。最も重要な傑作は緩衝ガラスで保護されていたが、そのガラスの破片でいくつかの絵画は破壊され、深刻な損傷を受けた。


(4)-ミラノ「パレストロの大虐殺」
1993年7月27日の夜にモダン アート ギャラリーとコンテンポラリー アートパビリオンの近くのパレストロ通りで爆弾を詰め込んだ自動車が爆発した。この爆発により、消防士のカルロ・ラ・カテーナ氏、セルジョ・パソット氏、ステファーノ・ピチェルノ氏、市警のアレッサンドロ・フェラーリ氏、モロッコ移民でベンチで寝ていたムサフィール・ドリス氏の5人が死亡した。

(5)-ローマ「ローマの教会爆破」
ミラノでの爆弾テロの40分後、1993年7月28日00:03、ラテラーノのサン・ジョヴァンニ大聖堂近くのサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ広場とラテラノ宮殿で自動車爆弾が爆発し、5分後の00:08にヴェラブロのサン・ジョルジョ教会の近くで別の攻撃が行われた。合計22人の負傷者が出た。
それが当時の最高機関の指導者であるジョヴァンニ・スパドリーニ上院議長 とジョルジオ・ナポリターノ議院議長に対する脅迫である可能性があるというものであった。


(6)-ジュゼッペ・ディ・マッテオ少年に対する誘拐・監禁・拷問・殺害・死体損壊した事件
1993年にコーザ・ノストラが元幹部のサンティーノ・ディ・マッテオが国側の証人となり、コーザ・ノストラが犯した出来事を全て暴露しはじめるという「裏切りへの報復」としてサンティーノ・ディ・マッテオの息子、ジュゼッペ・ディ・マッテオ(当時12歳)を誘拐し、1993年から1996年までの約800日間監禁・拷問した。
息子を誘拐の目的は、警察への証言を撤回するように脅迫するためであったが、逃亡者のブルスカがイグナツィオ・サルボの殺害で終身刑を宣告されたとき、メッシーナ・デナーロはジュゼッペ少年を殺すように命じた。
1996年1月11日、25か月の投獄の後、首を絞めて殺害された。ジュゼッペ君が殺されたときは15歳だった。
殺人実行犯のブルスカ裁判の公判中、犯罪がどのように行われたかについてを詳細を語った内容は、残虐かつ不気味で恐ろしいトラウマ級の供述であり、酷たらし過ぎるのでイタリア語のそれを日本語に翻訳して紹介するのは伏せたい。

とにかく鬼畜そのものである。

殺害後に遺体は、硝酸で溶かされた。
この慣行は主にサルヴァトーレ・リイナのコルレオーネシ一族によって使用された殺害した人間の遺体の隠蔽のためにルパーラ・ビアンカ(別名ホワイトショットガン)というコーザ・ノストラがする伝統的な抹消方法で残酷な死体損壊が行われた。

このストーリーにインスパイアされて作られた様々な映画がある。
1998年に『トゥ・リーディ』という映画は、(君は笑う)と(二度の誘拐)という2つのエピソード構成の映画が制作されたものである。
また、この実話を元にして制作された映画『シシリアン・ゴースト・ストーリー』は、2017年カンヌ国際映画祭で批評家週間のオープニング作品に選出され、さらにイタリア・アカデミー賞脚色賞をはじめイタリアの主要映画賞を多数受賞している。

⭕️国家とマフィアの交渉

Italy's most-wanted Mafia boss arrested in Sicily の和訳 BBC NEWS JAPANより引用

英エセックス大学のアンナ・サージ教授(犯罪学)は、同容疑者ががんの治療を受けていたことから「かなり病気だった」と思われれると指摘。犯罪社会の関係者らから、もう役に立たないと判断されたとの見方もあるとした。

「つまり、彼はマフィアと国の間の取引の一部、何らかの見返りのために差し出される構造の一部だった可能性が高い」


との見解が書かれてあったが、「国家とマフィアの交渉」については、そんなこと今始まったことでもない。それは、目新しい犯罪考察という感じでもないし、イタリアでは昔からある定番デフォルト事項である。

これがイタリアの闇のでもあるのだが、政治と経済との関係を織り込み、シチリアとイタリアの社会を正さなければならない部分だ。

ボルセリーノ裁判官が殺害されたのは、当時のコーザ・ノストラのボスのトト・リーナが「国家とマフィアの交渉」が行われていたのに、ボルセリーノ裁判官がこの交渉を妨害したための報復であった。

ボルセリーノ裁判官は、特殊作戦グループ (ROS)からパレルモの検察庁に送られた「マフィアと契約書」と呼ばれる書類についてを明らかにしようとしていたからだ。後に、国家からは保護されず、国家に裏切られ殺害されたと、ボルセリーノ裁判官の遺族は「国家虐殺」だと国を強く批判した。

交渉は国家機関の組織メンバーと犯罪組織コーザ・ノストラとの間でいわゆる『交渉』が行われていたというものである。
交渉内容は、国家機関側から「今後大虐殺をしない、テロを終わらせること」を意図した、マフィア協会に与える恩恵と引き換えに行われたもので、マフィアが国家に求める恩恵とは、無期懲役刑で既に服役している仲間(ファミリー)の解放などである。

何百人ものマフィアの証言と司法の多数の協力者によって収集された証言に基づき、国家とマフィアの交渉に関する裁判が1992年6月1日から開始され、2018年の最初の裁判では、マフィアの指数だけでなく組織的な国家機関の者も有罪判決が下った。しかし、後に無罪となった。

2021年の控訴判決、今なお、この「国家とマフィアの交渉」の裁判は続いている。

現在は、反マフィア委員会によって最近強調されたように、コーザ・ノストラは近年は「水没戦略」を好んでおり、警戒や喧騒を引き起こすことなく犯罪活動を実行するために秘密裏に水面下で活動しているが、「国家とマフィアの交渉」はメローニ政権では、決して行われないと思える。

メローニ首相は、「マフィア犯罪グループの最重要メンバー」を拘束した軍部隊の働きに感謝するとし、「これは国にとって大きな勝利だ」とツイッターで呟いていた。

時代も政権も変わり、極左・左派政党勢力から右派政党が第一党となったイタリア。
ジョルジャ・メローニ首相はマフィアのラスボスが逮捕されたその日、1月16日に、シチリア行きのチケットを早速手配し、パレルモを訪問した。また、パレルモ近郊にある、1992年の爆破事件の犠牲者の記念碑を訪れ、「やっとコーザ・ノストラのボスを逮捕しました」という報告をしたのだろう、静かに黙とうを捧げた。

2022年10月25日、ジョルジア・メローニ首相は、議会で所信表明演説をした際、マフィアと戦った英雄たちの名前を列挙した。
メローニ首相が15歳のとき、政治家になろうと決めた大きなきっかけとなった出来事が、パオロ・ボルセリーノ裁判官が殺害されたダメリオ大虐殺の翌日だったと演説で語っているくらいだ。パオロ・ボルセリーノ裁判官は「国家に虐殺された」とも後に言われた。メローニ首相は、「傍観していては怒りと憤りが政治に変換されるだろうという考えに駆り立てられた、だから、私は政治家になろうと思った」と言っている。

【関連記事】イタリア新政府発足、メローニ首相所信表明演説の内容

メローニ政権下でのマフィアのボスの逮捕は、念願と執念の賜物であった。
特殊作戦グループ (ROS)のお手柄であった。
ROSは、1990年12月3日に結成された犯罪対策組織など特殊な事案の対処を担当する、カルロ将軍によって特別に選ばれたわずか40人で構成された「特別司法警察ユニット」であり、いわゆる特殊作戦部隊である。
メローニ首相は、徹底的にマフィアの根絶を目指しているので、マフィアと国の間の取引など、考えられないし、絶対にあり得無いと信じたいものだ。

イタリアで他の誰よりもマフィアとの戦いに貢献した治安判事であるジョヴァンニ・ファルコーネの有名な言葉に
「マフィアも人間です、すべての人間と同様に、始まりがあり、終わりもあります」がある。いつか必ず、マフィアは絶滅する。

近年のマフィアは、"金融犯罪とホワイト カラー"がテーマのようだ。
起業家と政治家の両方が関与する腐敗システムをますます活用しており、社会構造と行政に根ざすことが当初から常に目標であったことを示している。 つまり、今日でもマフィアは敗北も縮小もしてなんかいない。
それを防止し、これに対抗するための効果的なツールは、合法性について、徹底的に教育することである。
市民としてマフィア撲滅を一緒に目指し、この現象と戦うことは簡単で、まず第一に、マフィアの財源を豊かにする麻薬、売春、ギャンブル、武器密輸や不法移民の人身売買などに、一切関わらないことである。
マフィア現象の根源に取り組むための鍵となると筆者は思う。

 

Profile

著者プロフィール
ヴィズマーラ恵子

イタリア・ミラノ郊外在住。イタリア抹茶ストアと日本茶舗を経営・代表取締役社長。和⇄伊語逐次通訳・翻訳・コーディネータガイド。福岡県出身。中学校美術科教師を経て2000年に渡伊。フィレンツェ留学後ミラノに移住。イタリアの最新ニュースを斜め読みし、在住邦人の目線で現地から生の声を綴る。
Twitter:@vismoglie

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