
イタリア事情斜め読み
イタリアの移民労働者受け入れ制度「デクレート・フルッシ」の実態と闇

| 空港で始まる悪夢
2023年の夏、フィウミチーノ空港には希望と不安を抱いた外国人労働者たちが次々と降り立った。
彼らの手には正式なビザと労働許可証、そしてイタリア・ラツィオ州の農場や工場で働くという約束があった。
故郷で支払った8,000ユーロ(約134万円)から12,000ユーロ(約202万円)という高額な仲介料は、多くの場合、家を担保に入れたり親戚から借金したりして工面した資金だという。
しかし、空港で彼らを迎えるのは約束された雇用主ではなく、見知らぬ中間業者であることが大半。
労働者たちは狭いアパートに案内され、他の外国人労働者との共同生活を余儀なくされるのだ。
「雇用契約はすぐに準備される」という言葉を信じて待ち続けるが、実際に契約書が手に渡ることはほとんどないという。
このような状況は、現代イタリアで繰り返される移民労働者搾取の典型的なパターンで、彼らが直面する現実は、単なる労働問題を超えた人権侵害の側面を持つ。
|「デクレート・フルッシ」制度の現状と課題
イタリアの移民労働者受け入れ制度「デクレート・フルッシ(Decreto Flussi)」は、1998年に制定された法律に基づき、毎年政府が定める枠内で外国人労働者を合法的に受け入れることを目的としている。しかし、実態は複雑な問題を抱えている。
2024年のラツィオ州における申請数は68,050件に上るが、そのうち正式に処理されたのは16,588件、実際に許可証が発行されたのはわずか9,645件にとどまる。申請者の約86%が許可を得られず、制度の運用に大きな壁があることを示している。
最大の問題は「呼び出し制度(sistema delle chiamate)」の運用だ。この制度では、イタリア国内の雇用主が特定の外国人労働者を「呼び出す」形で申請するが、事前の面接や具体的な労働条件の合意は義務付けられていない。内務省の統計によれば、2023年に行われた「呼び出し」のうち、実際に雇用契約が締結されたのは全体の約35%に過ぎず、残りの65%は到着後に雇用主から拒否されるか連絡が取れないケースが大半を占める。
さらに、労働社会保障省の内部資料では、「呼び出し」を行った雇用主の約40%が該当労働者と実質的な関係性がなく、雇用する意思がないことが明らかになっている。この問題は制度の根幹を揺るがしているが、抜本的な対策は講じられていない。
行政の監督体制も課題を抱える。2023年にラツィオ州で実施された労働監督は約3,200件で、これは管内事業所の約2%に過ぎず、人員不足が監督強化を妨げている。違法行為が発覚しても、雇用主に科される罰金は多くの場合5,000ユーロ以下であり、違法から得られる利益に比べて抑止力は限定的である。
このように、「デクレート・フルッシ」制度は合法的な移民労働の受け皿としての役割を果たす一方で、申請のハードルや雇用主との関係性の希薄さ、行政の監督不足という多くの課題を抱えている。
|中間業者という影の存在
調査ジャーナリストのマルコ・ロッシ氏が行った潜入取材によると、仲介業者の利益構造は極めて複雑だという。出身国での最初の接触者は全体の10〜15%を受け取り、残りは複数の段階を経て分配される。イタリア国内での受け入れ業者、書類作成業者、宿泊施設提供業者、そして最終的な雇用主候補まで、多数の関係者が関与しているという。
移民労働者たちが渡航前に支払う8,000ユーロから12,000ユーロ(約130万円から200万円)という金額は、単なる渡航費用や手続き費用ではない。この資金の大部分は、複雑な中間業者ネットワークに流れ込んでいく。このネットワークは、移民の出身国とイタリア国内の両方に根を張り、合法と非合法の境界線上で巧妙に運営されている。
インドやバングラデシュ、パキスタンなどの出身国では、親戚や知人、同郷の先輩移民などが「成功への架け橋」として機能する。彼らは故郷のコミュニティで信頼を築き、「確実な雇用」を餌に高額な仲介料を請求する。金額は8,000ユーロから12,000ユーロ(約130万円から200万円)と幅があるが、その設定根拠は不明確だ。
この資金の流れで最も問題となるのは、その大部分が「約束の履行」に使われないことだ。
労働者が支払った費用の実際の使途を追跡すると、正式な雇用契約の確保や適切な住居の提供に充てられるのは全体の20〜30%程度に過ぎない。残りは中間業者の利益として消えていく。
悪質なケースでは、同一の「雇用主」が複数の労働者から仲介料を受け取りながら、実際には誰も雇用しないという事例も報告されている。ある農場主は、年間50人の労働者を「呼び出す」と表明しながら、実際に雇用したのは5人だけだった。残りの45人は行き場を失い、非正規労働市場に流れ込んでいく。
|到着後の現実-「透明人間」の誕生
ローマのフィウミチーノ空港に降り立った移民労働者たちを待ち受けるのは、事前に約束されていた雇用主ではなく、見知らぬ中間業者であることが少なくない。彼らは労働者を一時的な宿泊施設に案内し、「雇用契約はまもなく整う」と説明する。しかし、実際には手続きが何週間、あるいは何カ月も遅れるケースがある。
ローマ・サピエンツァ大学の社会学者エレナ・ビアンキ教授によると、移民労働者たちはその間、ラツィオ州各地の住宅に複数人で共同生活を強いられることが多く、住環境や費用に関して不透明な契約条件が存在するという指摘もある。家賃として一人あたり月額200ユーロ(約3万3,600円)前後が請求されるケースも報告されているが、その妥当性を検証する手段は乏しいという。
この「待機期間」において、労働者たちは中間業者からの連絡を待ち続けるしかなく、具体的な進展が見られないまま時間だけが過ぎていく。経済的余裕のない者にとっては、この間の生活費だけでも大きな負担となり、最初に持参した資金が尽きることも珍しくない。
さらに深刻なのは、「呼び出し」を行ったとされる雇用主との接触が取れない、あるいは雇用の意思自体がなかったという事例が後を絶たないことだ。労働契約がなければ、滞在許可証の更新も行えず、結果としてビザの期限切れによって不法滞在者と見なされてしまう。
こうして、制度の隙間に取り残された移民労働者たちは、労働法や社会保障の保護を一切受けられない「透明人間」となり、極めて不安定な立場に追い込まれる。こうした状態にある移民労働者はラツィオ州だけで推定約15,000人に上るという。
|搾取の現場-農場からピッツェリアまで
イタリアの移民労働者搾取の実態は、様々な業界で確認されている。
農業分野では、ラティーナ郊外の野菜農場で朝5時から夜8時まで炎天下での収穫作業に従事する労働者が多い。日給は25ユーロ前後(約4,200円)で、これは法定最低賃金の約3分の1に相当する。
農場での労働環境は過酷を極める。休憩時間は昼食の30分のみで、水分補給も自己負担となることが多い。宿泊施設は農場敷地内のプレハブ小屋で、エアコンもなく、複数の労働者が一部屋に押し込まれる状況が一般的だ。
飲食業界でも同様の問題が見られる。ピッツェリアやレストランでのキッチン作業では、週6日、1日12時間に及ぶ労働が常態化している。月給は600ユーロ前後(約10万800円)で、法定最低賃金を大幅に下回っている。多くの経営者は正式な雇用契約書の作成を拒み「信頼関係で十分」として社会保険料の支払いや労働法の遵守を回避している。
建設業界では日雇い労働が中心となる。1日の労働時間は10時間程度で、日給は35ユーロ前後(約5,900円)だ。安全装備は最低限で、労災保険も適用されない危険な環境での作業が続いている。
これらの現場で働く労働者の大半は、正式な滞在許可証を持たない「透明人間」状態にある。現場監督や経営者は労働者の身分について一切質問せず、むしろ彼らの弱い立場につけ込んで安い労働力として利用している。
国境なき医師団の調査によると、非正規移民労働者の労働災害発生率は、正規労働者の約3倍に達している。しかし、その大部分は報告されず、適切な治療も受けられない状況が続いている。
|労働組合と市民社会による移民労働者支援の現状
移民労働者の権利保護において、労働組合は重要な役割を果たしている。特に、イタリア労働総同盟(CGIL)傘下の農業食品産業労働者連盟(FLAI CGIL)は、移民労働者の搾取問題に積極的に取り組む代表的な組織の一つである。
FLAI CGILは多言語の相談窓口を設け、法的助言や労働契約の交渉支援を提供している。2023年にはラツィオ州で約2,800件の相談が寄せられ、そのうち約40%が具体的な問題解決に結びついている。また、同組合の告発活動により、2023年には50件以上の違法労働事業所が摘発され、約150万ユーロ(約2億5,200万円)の未払い賃金が回収された。
一方で、市民社会による支援活動も重要な役割を担っている。カトリック教会系の慈善団体「カリタス」は、移民労働者に対して食料支援や宿泊施設の提供を行い、「国境なき医師団」は医療アクセスの改善に努め、無料診療所の設置などを通じて移民労働者の健康を支えている。
これらの組織は、制度の不備や行政の対応の遅れを補完しながら、移民労働者の社会的な脆弱性を軽減するための重要な支援を続けている。
|解決への道筋-サナトリアと制度改革
移民労働者問題の解決に向けた最も重要な施策として、労働組合や人権団体が一致して求めているのが「サナトリア(不法滞在者の合法化)」の実施である。
イタリアでは過去に6回のサナトリアが実施されており、その都度、多くの移民が合法的な地位を獲得してきた。
最近では2012年に実施されたサナトリアにより、約13万人の移民が合法化された。その後の追跡調査によると、合法化された移民の約85%が安定した雇用を得ており、税収への貢献も大幅に増加した。
現在提案されている新たなサナトリアは、より包括的な内容となっている。
単なる身分の合法化にとどまらず、職業訓練の提供、言語教育の実施、社会保障制度への統合なども含まれている。費用は約50億ユーロ(約8,400億円)と見積もられているが、税収増加や社会保障費削減による経済効果を考慮すると、中長期的には黒字になると予測されている。
制度改革についても具体的な提案がなされている。
まず、「呼び出し制度」の抜本的見直しだ。雇用主と労働者の事前面接を義務化し、具体的な労働条件の合意を書面で確認する制度への変更が提案されている。
さらに、中間業者の規制強化も重要な課題だ。現在は実質的に野放し状態の仲介業者に対して、免許制の導入や料金の上限設定、違法行為に対する厳罰化などが提案されている。
|移民労働者に希望はあるのか
移民労働者問題への取り組みには、個人レベルでの成功例も存在する。
ローマでの建設作業中に労働災害に遭った一人の労働者は、FLAI CGILの相談窓口の存在を知り、そこで初めて自分の権利について学んだ移民労働者もいる。法的支援を受けた結果、現在は正式な労働契約を結び、適切な待遇で働くことができているという。
このような事例は、適切な支援があれば移民労働者の状況は改善できることを示している。問題は、そのような支援にアクセスできる移民がまだ少数派だということだろう。
イタリアの移民労働者問題は、確かに複雑で根深い課題だ。しかし、解決不可能な問題ではない。制度改革、監督体制の強化、市民社会の取り組み、そして何より政治的意志があれば、状況は大きく改善できるはずだ。
重要なのは、この問題を「外国人の問題」として片付けるのではなく、イタリア社会全体の課題として捉えることだ。移民労働者の搾取は、労働市場全体の公正性を損ない、社会の結束を弱める。逆に、彼らが尊厳を持って働ける環境を整えることは、社会全体の利益につながる。
人口減少と少子高齢化が進む中、移民労働者はイタリア経済にとって不可欠な存在だ。彼らを「使い捨ての労働力」として扱うのではなく、「社会の一員」として迎え入れることが、持続可能な発展への道筋となる。多くの移民労働者が「透明人間」ではなく、社会の構成員として認められる日が、一日でも早く訪れることを願ってやまない。

- ヴィズマーラ恵子
イタリア・ミラノ郊外在住。イタリア抹茶ストアと日本茶舗を経営・代表取締役社長。和⇄伊語逐次通訳・翻訳・コーディネータガイド。福岡県出身。中学校美術科教師を経て2000年に渡伊。フィレンツェ留学後ミラノに移住。イタリアの最新ニュースを斜め読みし、在住邦人の目線で現地から生の声を綴る。
Twitter:@vismoglie