World Voice

トルコから贈る千夜一夜物語

木村菜穂子|トルコ

トルコ南東部の地震から1か月が過ぎて...復興への道のりに乗り出すトルコの現状

アンタキヤで甚大な被害を受けたアンティークの店内。それでもいち早くお店を再営業させている。‐筆者撮影

今年の 3 月 11 日は東日本大震災が起きてから 12 年目。日本でも震災関連のニュースが多く流される時期だと思います。トルコは 3 月 6 日に南東部の大地震から 1 か月を迎えました。トルコ南東部の 11 の都市に甚大な被害をもたらした今回の大地震ですが、日本ではもはやほとんど報道されなくなっているかと思います。とはいえ、トルコは復興に向けた長い道のりに乗り出したばかり。現地の様子をお伝えしたいと思います。

私は地震発生の時にたまたまヨルダンに出張していたので、マグニチュード 7.8 という揺れは経験していません。地震の 2 日後にガジアンテプ市に戻ってきました。この時期、トルコ南東部はこの冬一番の大寒波に襲われていましたので、氷点下のこの気候も相まって街全体が恐怖で凍りついていた感じです。この地域で起きるとは誰も予想だにしなかった大地震が起きたというショック・困惑・パニックといった感情のほうがかなり大きかったのではないかと思います。

壊滅的な被害を受けた場所では、地震発生から 2 週間ほどは救援活動が行われました。この救援活動に終止符が打たれ、瓦礫の撤去へと移行し始めたあたりで、人々の心の中に変化が生じ始めたような気がしています。ショックで呆然としていた状態から、「起きるはずがなかったけれども実際に起きた」という事実を受け入れるほうへと人々の心も移行していったように思います。生き残った者はどうやっても生きていくしかない。亡くなった人を忍び、失ったもの大きさに圧倒されながらも、生きる方法を探していくしかない。恐怖に支配されていた人たちの顔に笑顔が少し戻り始めた時期でもありました。

現在、被災地で急ピッチで進められているのがコンテナハウスの設置。家を失った人たちや家の修復等が必要な人たちに仮の住居としてコンテナ式の家を提供するものです。今あるテント村はやがてコンテナハウスに置き換えられていくと思われます。

被害の大きさによって異なる復興への道のり

私がメインで住んでいるガジアンテプ市はガジアンテプ県の中でも被害が最小限に抑えられたエリア。地震の 3 日後には電気も水もインターネットも使えるようになっていました。4 日もすれば不定期ながらもバスが市内を行き来しだし、お店も入荷が遅れて品薄になっていた商品があったものの時短で開店しだし、生活が普通に戻りだしました。10 日ほど経つと都市ガスも使えるようになり、生活はほぼ地震前と変わらない状態に。

その後、被災地の建物の地震によるダメージの検査が行われ始め、3 週間もするころにはガジアンテプ市のほぼすべての建物の検査が終了。人々がこわごわ家に戻り始めました。全壊した建物もありますが、ガジアンテプ市内では 15 棟ほどなのではないかと思います。全壊や半壊しなかったものの、被害が大きいために今後建て直しが必要になる建物は一定数あると思われます。

家を失った人は自治体や AFAD (トルコ災害緊急事態対策庁) が提供するテント生活を送っており、被災していない地域に親類や友人がいる人の中にはいったん避難することを選択する人もかなりの数に上りました。現状としては、恐怖心やトラウマなどから不眠を訴えるトルコ人が多く、家の被害はほとんどないものの外で自作・自前のテント生活を送る人が増えています。小さな余震は断続的に続いており、今後大きな余震が来るのではないかといわれていますので、それを恐れる人が非常に多いです。

一方、街全体が消滅したともいえるような壊滅的な被害を受けた被災地もあります。今回の地震で最も壊滅的な被害を受けたといわれているのがハタイ県のアンタキヤとその周辺の地域。アンタキヤは地震前の人口が 40 万近く、トルコ内外からのツーリストでいつも賑わっていた場所でした。歴史も古く、聖書の中では「イエスの弟子たちが神慮によってクリスチャンと呼ばれた」最初の場所として触れられており、2000 年以上前から栄えていたエリアでした。アラブとトルコの文化が実にうまく融合した場所で、アンタキヤのトルコ人の中にはトルコ語とアラビア語の両方を話す人も多く、食は美味しく、人々は温かく、アンタキヤのファンも多かったのではないかと思います。

今回の地震では控えめに見積もってもアンタキヤの建物の半分以上は全壊または半壊、80‐90% が解体を待つ状態なのではないかと思います。地震後 1 か月経つ現在も、街はがれきの山。このがれきの下にまだまだ人々の遺体があると思われますが、もはや形をとどめていないはず。ブルドーザーでがれきと一緒に集められています。街は粉じんで曇っており、街を歩くだけで全身砂まみれになります。アンタキヤ市内でも一番被害が大きいのがツーリストに人気の古いエリアで、市内で一番長いといわれる Kurtulus Street (コルトルシュ通り) にはどこまでも続く倒壊した家々が...。

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IMG_20230306_135234831.jpg地震後 1 か月のアンタキヤの街中 ‐ 筆者撮影

現在の街はほぼ空っぽで、建物(家)に住んでいる人はほぼいません。現在アンタキヤにいるのは、行き先がなくてテント暮らしをしている人々 (シリア人の割合が非常に多い)、引っ越しや荷物を取るためだけに数時間帰ってくるトルコ人、がれき撤去の業者たち、治安維持のための軍人と警察官。営業しているお店はほぼなく、市内を走るバスもなく、まさにゴーストタウンのような様相。一夜のうちに人口 40 万人の街全体が消滅してしまったのです。

震災後に被災地を訪れて動画を Youtube 上でアップしているトルコ人たちも多々いますが、ある人はアンタキヤを見て「地震で被害が出るのは分かる。建物が倒壊するのも分かる。でも街全体がごっそりなくなってしまうなんて...」とショックを隠せない様子でした。こんな風に壊滅的な被害を受けたのはアンタキヤだけではなく、比較的大きな市ではカハラマンマラシュ、マラティヤ、アドゥヤマンなどが同じような状況です。その他にもほぼ消滅したと同然の小さな町が幾つもあります。

ガジアンテプ市のように既に「普通」の日常に戻ったところと、復興にかじを切っているものの実際の復興には程遠いところと...被害の度合いによって現状が全く違います。

地震後に一躍有名になった Erzin 市の真実とは?

さて壊滅的な被害を受けたアンタキヤと同じハタイ県に位置する市で Erzin と呼ばれるところがあります。人口 5 万人ほどの小さな市。ここでは倒壊した建物は 1 つもなく死者も 1 人として出ませんでした。地震後に一躍「時の人」になったのがこの市の市長 Ökkeş Elmasoğlu (オッケス・エルマスオール) 氏。地震後に「違法建築には決して妥協しなかった」とインタビューで語っておられたりして、こんな真っ直ぐな市長は彼だけだという風に称賛を受けました。

そんな Erzin 市を訪ねてみると...建物はトルコの他の場所と同じような強度で特に質が高いわけでは決してない。倒壊こそしなかったものの被害を受けた建物も多く、表面的な被害が少なかったガジアンテプ市とほぼ同じような状況。結局のところ、建物の強度云々というより地盤がしっかりしていたので被害を免れたようです。

市民たちは市長への非難を口々に語ります。市長が「Erzin 市は被害を受けていない」と語ってしまったために、AFAD (災害緊急事態対策庁) の援助が一切入らない、というクレームが非常に多かったです。AFAD は大規模な災害に対応するために非常によく組織されており、被災地でテントを設置したりなど今回の地震では被災地で大活躍。Erzin 市には公的機関からの援助が一切入らないので、市民は自作のテントなどを設置して外で生活しています。

もちろん違法建築に厳しかったことが今回の地震の被害を最小に抑えるうえで全く役立たなかったといっているわけではありません。ただし、この Ökkeş Elmasoğlu 市長は任期についてまだ3年目だということです。それに対して Erzin 市にあるほとんどの建物はもっと古いもの。こうした理由で「彼が何を成し遂げたと言っているの分からない...」とぼやく市民たち。ニュース報道と現実とのギャップがここまであるのかと衝撃を受けた Erzin 市の訪問でした。やはりニュースを鵜呑みにするのではなく、自分の目で確かめるのが一番だと再確信した出来事でした。

トースト屋さん.jpg観光地ではない Erzin 市ではカフェなども非常に少ない。やっとありつけたのはトースト。「ゲストにお金を払わせるわけにはいかない」と無料にしてくれた青年。トルコ人の優しさに触れることもできた Erzin 市訪問。

熱くて情熱的だが冷めやすくもあるトルコ人?

熱くて情熱的なトルコ人。地震直後にはボランティアとして被災地に入るトルコ人も多く、自分のことは後にしてもとにかく何かをしたい‼ 同胞を助けたい‼ という熱い思いに動かされたトルコ人が多かったです。が、熱しやすく冷めやすいのもまたトルコ人...。2 週間もすればそれぞれ自分の生活に戻り始め、この辺りからよく耳にするようになったのが「fırsatçı」というトルコ語。他の人の不幸を自分の利益のために使う人のこと。

例えばメルシン市。メルシンは地震が起きても被害が少ないといわれているエリアであることに加えて、被災地から近いという理由もあり、今回の大地震の被災者たちがかなり移動したといわれています。地震後 2 週間の間にメルシンの家賃は 2 倍 3 倍に。地震直後は誰もがあの悲惨な光景に心を動かされたものの、あっという間に自分の利益のために利用する方向へ流れてしまったのは本当に残念です。もちろんすべてのトルコ人ではありません。今も無償で救援を続けるトルコ人たちもいます。また、人の不幸を利用せざるを得ないのが現在のトルコの経済事情 (以前の記事をご参照ください)。少しでも多くお金を得ることができるなら得たいというのがトルコ人の本音でしょう。

私ももれなくこの「fırsatçı」の犠牲になりました。メルシンに 0+1 の小さなアパート (キッチンと1室だけの猫の額ほどのアパート) を借りているのですが、運悪く地震後 (3 月 6 日) が契約の更新日でした。去年は 1 か月 1500 TLだった家賃を 5000TL (4 万円弱)にするという通達が大家から届きました。3 倍以上‼ あり得ない値段です。この小さすぎるアパートはその値段に値しません。1 年前には 1 万円の価値だったアパートです。

でもこの時期メルシンで他のアパートを探そうとしても時期が悪すぎる...。4000TL (3万円ほど) 以上は支払わないと言い張りましたが、本当は 4000TL でも高すぎます。さらに 3 倍近い値上げは違法そのものです。しかもこの大家は 1 年分を一括で振り込めと要求します。悲しいことにトルコでは借家人の権利は守られません。断れば追い出されるだけ。心は怒りに燃えていましたが、4000TL で合意しました。が、大家に「あなたも fırsatçı のように行動していますね」と皮肉ることは忘れませんでした。強欲大家にどれくらい効いたのかは不明です。ちなみにこの大家、1 年分の家賃 (35 万相当) を手にしたその日に銀行に行って自分の借金の返済に充てたようです。こんな風に借金まみれなのが多くのトルコ人の現状です。

私の友達に今日起きたのは、アパートの立ち退き要求です。彼女は壊滅的な被害を受けたアドゥヤマンに住んでいました。地震後、アドゥヤマンの市内中心部の建物はほぼ全壊または半壊。そんな中、彼女の家がある小さな集落は市内中心部からバスで 20 分ほどと少し離れていたこともあり、倒壊を免れたどころかその集落のどの家にもヒビさえ入りませんでした。それを聞きつけた大家。自分のアパートは大きなダメージが出て住めないので、数日後に出て行ってほしい、と電話をかけてきました。こんな状況でどこに行けばいいのか? アドゥヤマン市内は壊滅的なのでアパートを探すことなどできません。他県では先に述べた「fırsatçı」の大家たちが獲物を待ち構えるライオンのようにこれまでの 2 倍 3 倍という家賃を要求しています。家が倒壊していないのでコンテナハウスに入る資格もありません。このように追い出される住人たちもかなりの数に上っていると思われます。

復興への道のりは前途多難だけれど...

復興には息の長い支援が欠かせません。家や財産を失った人への政府からの支援はどうなるのか、というのが目下の人々の関心事です。地震によるダメージが多少でもあると判断された家に住む人には 1 家族当たり10000TL (500ユーロ相当) が支給されています。が、7 万円ほどで何ができるというのでしょう。子供の数が多い家族の場合、1,2 か月分の食費の足しになる程度です。ここ 2 年ほど悪化の一途をたどっている経済危機ですでに借金を抱えているのが大多数のトルコ人。中流階級が貧困層に転落しているといわれていますが、今回の地震でそれが加速するかもしれません。気が遠くなりそうな復興への道のりはまだ始まったばかりです。

そんな中でも前を向いて歩いて行こうとするトルコ人の姿があります。

地震発生後 1 か月目のアンタキヤで唯一見つけた営業中のお店。店主のユルドゥライさんは家族をトルコ北部のサムスンに避難させた後、一人でアンタキヤに帰ってきました。アンタキヤのオトガル (バスの停留所) 近くのお店でトゥルンジと呼ばれるトルコの揚げたお菓子を地震前と同じように作って売っています。ユルドゥライさんは現在テント生活。いつまでこの生活が続くか分かりませんが、生きていくために、家族を支えるために仕事にいち早く復帰。人気 (ひとけ) の失せたアンタキヤ市で黙々と仕事に没頭します。

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アラビア語も堪能なトルコ人のユルドゥライさん。アラビア語とトルコ語の両方をここまで上手に操るトルコ人に会えるのはアンタキヤならでは。 ‐ 筆者撮影

セルカン氏は Kurtulus Street (コルトルシュ通り) でアンティークのお店の営業を再開しました。

DSC_0224.JPGアンティークのお店の前でポーズを取るセルカン氏 ‐ 筆者撮影

「アンタキヤには必ずツーリストが戻ってくる。今でもね。あなたも来たでしょ。昨日は別の取材班が来たしね」とチャーミングに話すセルカン氏。破壊された家々が延々と続く Kurtulus Street (コルトルシュ通り) で彼のお店から音楽が大音響で響き渡ります。

悲しみを乗り越えて現実と向き合い、復興へ向かって力強く歩き出すトルコ人たちがたくさんいます。

 

Profile

著者プロフィール
木村菜穂子

中東在住歴13年目のツアーコンサルタント/コーディネーター。ヨルダン・レバノンに7年間、ドイツに1年半滞在した後、現在はトルコ在住4年目。メインはシリア難民に関わる活動で、中東で習得したアラビア語(Levantine Arabic)を駆使しながらトルコに住むシリア難民と関わる日々。

公式HP:https://picturesque-jordan.com

ブログ:月の砂漠―ヨルダンからA Wanderer in Wonderland-大和撫子の中東放浪記

Eメール:naoko_kimura[at]picturesque-jordan.com

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