コラム

楽都・松本 音楽情操教育「スズキ・メソード」はここから世界に広まった

2020年09月15日(火)16時00分

◆「そことここの間」にある豊かな住宅街

7R402124.jpg

古いものと新しいものが同居する松本市南部の住宅街

フジゲンを後にし、市内を流れる田川に沿って北上し、松本の中心部を目指す。市南部の住宅街は、大きめな一軒家が多く、きれいに整った印象だ。収入ベースでは、やはり東京圏の方が豊かなのだろうが、住環境に限っては都内や首都圏のベッドタウンよりも余裕があって、僕の目にはこちらの方が少し豊かそうに映った。

僕は、物心ついた時には、東京都内の狭小な3LDKの団地に住んでいたが、小学校に上がる少し前にカナダの首都、オタワに渡った。オタワの家は、カナダの一戸建て住宅としては特別に広いわけではなかったが、日本風に言えば4LDKの平屋で、すべての部屋が東京の団地の2倍も3倍も広く、子供が駆け回れる芝生の前庭と裏庭があり、ガレージ、そして、兄弟でアイスホッケーごっこ(氷の代わりにリノリウムの床でパックを滑らす)ができる地下室まであった。その日本とカナダの家のギャップのせいか、その後の日本の暮らしでも衣食住の「住」が圧倒的に貧しく感じられた。バブル期にあっても、日本がいくら諸外国と比べて豊かだと言われても、ピンと来なかった。

しかし、この「日本横断徒歩の旅」で東京の晴海埠頭から松本まで20回に分けて歩いてきて、その認識が変わってきた。山梨県上野原市の天空のニュータウン「コモアしおつ」に並ぶ一軒家はどれも素敵だったし、勝沼・塩山の大果樹園地帯を歩いた時には、「ぶどう御殿」と言うべき立派な新築の農家が多いのに驚いた。移住人気No.1を争う北杜市でも、カナダの住宅に匹敵するような洋風の瀟洒な移住者住宅が集まっていた。長野県に入ってからも、この松本市の郊外住宅地のように、首都圏よりも余裕が感じられる新興住宅街を何か所か通過している。

そう、自分が思ってきたほど、今の日本の住環境は悪くないのではないか。ひたすら歩いてこなければ気づかなかったことだ。ここで挙げたような住宅街は、普通の旅の感覚では目的地と目的地の間の「何もない所」である。しかもたいてい、電車や車では通らないような裏道にある。僕が旅で本当に見たいのは、「そことここの間」にある、リアルな現実を教えてくれるこんな場所だ。

7R402196.jpg

僕が旅で本当に見たいのは、見過ごされがちなこんな光景だ

◆全裸のフルート少年

7R402240.jpg

地方デパート「井上百貨店」のビル(左・右)の谷間に一軒家。地方の駅チカの今

7R402260.jpg

松本駅前のメインストリート

今や全国どこの郊外の街道沿いにもある共通フォーマットの台湾料理屋で昼食をとり、にわか雨をやりすごした。そこから小一時間ほど歩いた頃には、再び晴れ間が覗き始めた。青いロゴの「井上百貨店」のビルが見えてくれば、駅チカの繁華街だ。全国でほとんど壊滅状態にある地方のご当地デパートも、松本ではなんとか生き残っている。1885年創業の井上百貨店は、百貨店受難のこの時代にあっても、お世辞にもにぎやかとは言えない松本駅前で存在感を示し続けている。

聞けば、長野県で生産が盛んな蜂蜜、中山道・奈良井宿の伝統食材のフキといった地場産品や、地元障害者団体が生産する鴨肉製品をブランド化するなど、地域振興を絡めた戦略が功を奏しているという。そうした信州ブランドのスイーツなどは、松本の自社の売り場だけでなく、首都圏の百貨店の催物場で出張販売される。都会的なものを地元で販売するという従来の地方百貨店とは正反対の、地元のものを都会で販売するスタイルに転換したというわけだ。

その井上百貨店の西隣がJR松本駅。駅前を覗くと、「楽都」を主張する2体の銅像が立っていた。バイオリンを手にした少女像と、なぜか全裸でフルートを吹く少年の像。等身大よりやや小さく、何気なく歩いていたら見過ごしてしまうような地味な像である。ここでもやはり信州人らしく、控えめに「楽都」を主張しているのだろう。それにしても少年はなぜ全裸なのか。

7R402254.jpg

JR松本駅を背に立つバイオリンを持つ少女

7R402264.jpg

全裸のフルート少年

◆「岳都」のピンクのウサギ

7R402351.jpg

城下町の風情を再現した縄手通り

7R402434.jpg

白壁の蔵が並ぶ中町通り

駅前エリアから松本城までは、約1.5km、徒歩15分ほどである。その間には、城下町の小径を再現した「縄手通り」、白壁の蔵が建ち並ぶ「中町通り」をはじめ、城下町の風情たっぷりの町並みが続く。実際に歩いてみると、観光ガイドに必ず載っているこの2ヶ所だけでなく、古い映画館を改装した劇場がある大正ロマン風の通りがあったり、懐かしい昭和の風情が漂う個人商店が並ぶ小径があったりと、とても歩きがいのある町だ。

7R402522.jpg

大正ロマン漂う上土通り

7R402509.jpg

何気ない裏道にも懐かしい風情があった

松本城はいつ来ても美しい。いくらこの旅が点と点を結ぶ観光旅行のアンチテーゼだとはいえ、やはり今日のハイライトは国宝・松本城である。実は、僕はこの時はまだ松本城の中に入ったことがなく、今回もコロナ対策で間隔を空けての入場だったためにパスした。結果的に、それで良かったと思う。後日、追加取材のつもりであらためて天守閣に登ったのだが、城やタワー、富士山などのランドマークは、遠くから眺めるから良いのだとあらためて感じた。今回は、天守閣を望む堀端に立ち、写真家として芸術写真の王道であるモノクロームの目になって、しばし松本城を眺めた。

7R402582.jpg

モノクロームの目になって写真家的に感じた松本城の姿

松本城公園の出口で、「ウサギおじさん」に出会った。正確に言えば、再会である。既に、1時間ほど前に通過した縄手通りで、自転車で5、6羽のウサギを連れているこのおじさんに出会っていたからだ。その時は、かき氷を食べながら休憩しているおじさんに声をかけて、写真を撮らせてもらった。どうやら、どこからかウサギを連れてやってきて、松本の観光地を徘徊するのが日課なようだ。ウサギは皆、ピンクやオレンジ色に毛を染められていた。「この毛は自分で染めたの?」と聞いたら、「普通じゃ面白くないから」とおじさんは言った。僕は動物の毛を人間の見た目の都合で染めるのは良いことだとは思わないけれど、それがおじさんの自己主張なのだと思う。新宿にピンクのアフロヘアのタイガーマスクおじさん(新宿タイガー)がいるように、都会にはこういう人が必ずいる。

7R402423.jpg

縄手通りで出会ったウサギおじさん

7R402652.jpg

ウサギたちと松本城で再会

プロフィール

内村コースケ

1970年ビルマ(現ミャンマー)生まれ。外交官だった父の転勤で少年時代をカナダとイギリスで過ごした。早稲田大学第一文学部卒業後、中日新聞の地方支局と社会部で記者を経験。かねてから希望していたカメラマン職に転じ、同東京本社(東京新聞)写真部でアフガン紛争などの撮影に従事した。2005年よりフリーとなり、「書けて撮れる」フォトジャーナリストとして、海外ニュース、帰国子女教育、地方移住、ペット・動物愛護問題などをテーマに執筆・撮影活動をしている。日本写真家協会(JPS)会員

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

トランプ氏「ウクライナはモスクワ攻撃すべきでない」

ワールド

米、インドネシアに19%関税 米国製品は無関税=ト

ビジネス

米6月CPI、前年比+2.7%に加速 FRBは9月

ビジネス

アップル、レアアース磁石購入でMPマテリアルズと契
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:AIの6原則
特集:AIの6原則
2025年7月22日号(7/15発売)

加速度的に普及する人工知能に見えた「限界」。仕事・学習で最適化する6つのルールとは?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「二度とやるな!」イタリア旅行中の米女性の「パスタの食べ方」に批判殺到、SNSで動画が大炎上
  • 2
    日本より危険な中国の不動産バブル崩壊...目先の成長だけ追い求め「失われた数百年」到来か?
  • 3
    「飛行機内が臭い...」 原因はまさかの「座席の下」だった...異臭の正体にネット衝撃
  • 4
    真っ赤に染まった夜空...ロシア軍の「ドローン700機…
  • 5
    「このお菓子、子どもに本当に大丈夫?」──食品添加…
  • 6
    「史上最も高価な昼寝」ウィンブルドン屈指の熱戦中…
  • 7
    約3万人のオーディションで抜擢...ドラマ版『ハリー…
  • 8
    「オーバーツーリズムは存在しない」──星野リゾート…
  • 9
    「巨大なヘラジカ」が車と衝突し死亡、側溝に「遺さ…
  • 10
    歴史的転換?ドイツはもうイスラエルのジェノサイド…
  • 1
    「ベンチプレス信者は損している」...プッシュアップを極めれば、筋トレは「ほぼ完成」する
  • 2
    「弟ができた!」ゴールデンレトリバーの初対面に、ネットが感動の渦
  • 3
    「お腹が空いていたんだね...」 野良の子ネコの「首」に予想外のものが...救出劇が話題
  • 4
    千葉県の元市長、「年収3倍」等に惹かれ、国政に打っ…
  • 5
    日本企業の「夢の電池」技術を中国スパイが流出...AP…
  • 6
    どの学部の卒業生が「最も稼いでいる」のか? 学位別…
  • 7
    イギリスの鉄道、東京メトロが運営したらどうなる?
  • 8
    完璧な「節約ディズニーランド」...3歳の娘の夢を「…
  • 9
    エリザベス女王が「うまくいっていない」と心配して…
  • 10
    「二度とやるな!」イタリア旅行中の米女性の「パス…
  • 1
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 2
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 3
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事故...「緊迫の救護シーン」を警官が記録
  • 4
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 5
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 6
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
  • 7
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 8
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 9
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
  • 10
    「うちの赤ちゃんは一人じゃない」母親がカメラ越し…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story