最新記事
東南アジア

タイ・カンボジア国境紛争の根本原因...そもそもの発端「100年前の地図」をひも解く

2025年7月28日(月)16時45分
ペトラ・アルダーマン
タイ・シーサケート県の避難所

タイ・シーサケート県の避難所の様子 ZUMA Press Wire-REUTERS

<国際司法裁判所が判断の根拠とした1枚の地図が、長年続く対立の入り口だった>

タイとカンボジアの国境紛争が急激にエスカレートしている。7月23日、タイのウボンラチャタニ県で国境警備隊の兵士5人が地雷を踏んで重傷を負った。この種の事故はこの1週間で2度目だ(編集部注:7月28日に両国は即時かつ無条件の停戦で合意)。

これを受けてタイ政府はカンボジアの大使を追放、自国の大使を召還した。翌朝、カンボジアも報復としてタイの大使を追放し、バンコクのカンボジア大使館職員を召還。両国の軍事衝突も激化の一途をたどっている。


カンボジアはタイ側にロケット弾と砲弾を発射、少なくとも民間人11人と兵士1人が死亡した。タイも報復としてカンボジアへの空爆を実施した。ヒンドゥー教のプレアビヒア寺院遺跡付近の紛争地帯にある軍事基地を標的とした、と報じられている。

今回の緊張激化は5月下旬、両軍の交戦でカンボジア兵が死亡した事件から始まった。しかし、紛争の根源は19世紀末~20世紀初頭の植民地時代にある。

西欧列強が植民地化するまで、東南アジアに国境で区切られた国家という概念はなかった。それ以前は明確な境界のない緩やかな政治体制によって統治されていた。

東南アジアにこの概念を導入したのは、タイ(当時の名称はシャム王国)とカンボジアの最初の公式地図を作成したイギリスとフランスだった。シャムは正式に植民地化されなかった東南アジア唯一の国家であり、地図の作成は同国王の要請に応じて実施された。

現在のタイの国境は、フランス軍艦2隻がチャオプラヤ川を遡上し、バンコクを封鎖した1893年のパクナム事件後に作成された複数の地図と条約によって定められた。

シャムは事件後、主権維持のためフランスに譲歩し、広範囲の領土主張を断念した。これには現在カンボジアに属する寺院の所在地を含む複数の州が含まれていた。

1907年にフランスが作成した地図で改めて国境が定義されたが、かなり曖昧な部分が残った。この地図は53年のカンボジア独立後、両国関係の懸案事項となり、特にプレアビヒア寺院の扱いが問題となった。

フランスが54年に東南アジアから撤退すると、タイは同寺院を占拠。カンボジアは国際司法裁判所(ICJ)に提訴し、ICJは62年、フランスの地図を根拠に寺院はカンボジアに属すると判断した。タイは判決を受け入れたが寺院の周辺地域については引き続き領有権を主張した。

2008年、寺院がユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産に登録されると、両国の紛争が再燃。11年2月には激しい武力衝突が発生し、少なくとも民間人8人が死亡、兵士20人が負傷し、両国で避難民が多数発生した。

ICJの最終判断が出たのは13年、この地域のカンボジアの主権を再び認めるものだった。当時のタイはちょうど内政が不安定な時期だった。

今回の衝突がこれまでと違う点は、カンボジアのフン・セン前首相とタイのタクシン元首相の一族同士の対立が絡んでいることだ。過去20年間蜜月だった両者の関係は、今も強い影響力を持つフン・センがタクシンの娘ペートンタン首相との私的な電話の音声記録を公開したことで白日の下にさらされ、崩壊した。

このリークで窮地に陥ったペートンタンは、裁判所の判断が出るまで職務停止となり、両国関係はさらに悪化した。有力者同士の複雑な対立が背景にあるだけに、紛争の迅速な外交的解決は望み薄だろう。

The Conversation

Petra Alderman, Manager of the Saw Swee Hock Southeast Asia Centre, London School of Economics and Political Science

This article is republished from The Conversation under a Creative Commons license. Read the original article.

ニューズウィーク日本版 世界が尊敬する日本の小説36
※画像をクリックすると
アマゾンに飛びます

2025年9月16日/23日号(9月9日発売)は「世界が尊敬する日本の小説36」特集。優れた翻訳を味方に人気と評価が急上昇中。21世紀に起きた世界文学の大変化とは

※バックナンバーが読み放題となる定期購読はこちら


食と健康
「60代でも働き盛り」 社員の健康に資する常備型社食サービス、利用拡大を支えるのは「シニア世代の活躍」
あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

北朝鮮の金与正氏、日米韓の軍事訓練けん制 対抗措置

ワールド

ネパール、暫定首相にカルキ元最高裁長官 来年3月総

ワールド

ルイジアナ州に州兵1000人派遣か、国防総省が計画

ワールド

中国軍、南シナ海巡りフィリピンけん制 日米比が合同
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:世界が尊敬する日本の小説36
特集:世界が尊敬する日本の小説36
2025年9月16日/2025年9月23日号(9/ 9発売)

優れた翻訳を味方に人気と評価が急上昇中。21世紀に起きた世界文学の大変化とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 2
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる」飲み物はどれ?
  • 3
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人に共通する特徴とは?
  • 4
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 5
    腹斜筋が「発火する」自重トレーニングとは?...硬く…
  • 6
    電車内で「ウクライナ難民の女性」が襲われた驚愕シ…
  • 7
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 8
    【動画あり】火星に古代生命が存在していた!? NAS…
  • 9
    悪夢の光景、よりによって...眠る赤ちゃんの体を這う…
  • 10
    「週4回が理想です」...老化防止に効くマスターベー…
  • 1
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 2
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれば当然」の理由...再開発ブーム終焉で起きること
  • 3
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサイルが命中、米政府「機密扱い」の衝撃映像が公開に
  • 4
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる…
  • 5
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人…
  • 6
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 7
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 8
    埼玉県川口市で取材した『おどろきの「クルド人問題…
  • 9
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 10
    観光客によるヒグマへの餌付けで凶暴化...74歳女性が…
  • 1
    「4針ですかね、縫いました」日本の若者を食い物にする「豪ワーホリのリアル」...アジア出身者を意図的にターゲットに
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 4
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 5
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 6
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 7
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれ…
  • 8
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット…
  • 9
    「怖すぎる」「速く走って!」夜中に一人ランニング…
  • 10
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中