最新記事

芸術祭

あいちトリエンナーレのささやかな「勝利」

2019年10月8日(火)12時00分
仲俣暁生(フリー編集者、文筆家)

もし〈表現の不自由展・その後〉が町中で展示されていたら......

愛知芸術文化センターの展示をひととおり見た後、名古屋在住の知人と待ち合わせ、四間道・円頓寺の会場に向かった。名古屋市の中心部にこのような風情のある一角があることを初めて知ったが、ここだけは地元をよく知る誰かと話をしながら歩いてまわりたかったのだ。

豊田市のサテライト会場と同様、四間道・円頓寺に分散している小さな展示会場も、きわめてリラックスした雰囲気に感じられた。これらの会場は入場料をとるわけでもなく、パスの提示も不要である。地域に溶け込んだパブリックスペースであることは、攻撃に対する脆弱さにはなっておらず、むしろ市民社会によってアート作品が守られているような印象を受けた。

このエリアで見た作品から一つだけ挙げるならば、江戸時代から残る伊藤家住宅の蔵のなかに展示されていた、岩崎貴宏による黒炭等をもちいた立体作品〈町蔵〉が印象的だった。名古屋城の石垣やテレビ塔、会場に近い円頓寺商店街のアーケードなどが、一面が廃墟と化したかに見える風景のなかに置かれている。作家が広島出身の人だという知識をもとに、これらが核戦争後の風景なのだと即断する必要はないだろうが、そうした解釈の是非を超えて深く心に染み入るものがあった。

P9043385.JPG

岩崎貴宏〈町蔵〉

もう一つ付け加えておきたいのは、なごのアジールという小さな会場で行われていた、タブラ奏者ユザーンによる音楽プログラムを多くのお客さんが楽しんでいたことだ。今回、唯一目にすることができた音楽プログラムだが、この会場が無言のままにもっていたよい雰囲気は、メディアを通して流布されている「論争的な現代美術展」のイメージの対極にある。

だからふと、ナイーヴな夢想をしたくなるのだ。こうして町に溶け込んだ雰囲気のなかで、もしもあの少女像が、あるいは天皇の肖像をモチーフにした映像作品が、分散的に展示されていたら、それでもあのような激しい反発は起きただろうか、と。もちろんセキュリティの見地からすれば、ホワイトキューブのなるべく奥まったところで、厳重に警備をした上で展示を行うのがよいのかもしれない。しかし「情の時代」というテーマを掲げたこのトリエンナーレが最終的にたどり着くべき場所は、もしかしたらそんな地点だったのではないか。

つい忘れられがちだが、あいちトリエンナーレはたんなる現代美術展ではない。国際的水準をもつ現代美術展を中心としつつも、音楽やパフォーミング・アーツ、映像、ラーニングといった多様な表現形態で広義の「アート」を提供する芸術祭である。今回のトリエンナーレは、〈表現の不自由展・その後〉をめぐる議論が象徴するように、きわめて大胆な論点を掲げた現代美術展だった反面、歌舞音曲もまじえた楽しさや教育的効果をもつ地域芸術祭としての役割も期待されている。その部分に対する評価は、駆け足でたった一日だけ、しかも現代美術展のみを見てまわった私に語る資格はない。いくつものプログラムに繰り返し足を運んだ観客だけが、その真価を知っている。

あいちトリエンナーレは芸術監督やキュレーターや作家だけがつくりあげる場ではない。多くの障害と困難に見舞われた今回のトリエンナーレにおいて、名古屋市と豊田市にまたがるいくつもの会場を支え続けた人たち、そしてこれらの会場に何度も足を運んで芸術祭を支持した観客たちは、たとえ彼らがなに一つ声を発しないとしても、このトリエンナーレにおけるささやかな勝利者といっていいのではないか。

ここまで書いたところで、〈表現の不自由展・その後〉の展示が再開されるとの報が入った。同展の中止によって「死んだ」状態だった他の展示も再開されたとき、勝利はこのトリエンナーレに関わったすべての人のものになる。


<執筆者>仲俣暁生
編集者、文筆家。1964年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒。「シティロード」「ワイアード日本版」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、現在は「マガジン航」編集発行人。日本文藝家協会評議員、日本独立作家同盟理事、地域デザイン学会所属、大正大学表現学部客員教授。著書『再起動せよと雑誌はいう』『ポスト・ムラカミの日本文学』ほか。 「マガジン航」、TwitterID:@solar1964、 Facebook :https://www.facebook.com/NakamataAkio

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ワールド

米上院通過の税制・歳出法案、戦略石油備蓄の補充予算

ビジネス

物言う株主、世界的な不確実性に直面し上半期の要求件

ワールド

情報BOX:日米関税交渉の経緯、協議重ねても合意見

ワールド

豪小売売上高、5月は前月比0.2%増 予想下回る
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:トランプvsイラン
特集:トランプvsイラン
2025年7月 8日号(7/ 1発売)

「平和主義者」のはずの大統領がなぜ? 核施設への電撃攻撃で中東と世界はこう変わる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    ワニに襲われた男性の「最期の姿」...捜索隊が捉えた発見の瞬間とは
  • 2
    ワニに襲われ女性が死亡...カヌー転覆後に水中へ引きずり込まれる
  • 3
    仕事ができる人の話の聞き方。3位は「メモをとる」。2位は「身を乗り出す」。では、1位は?
  • 4
    突然ワニに襲われ、水中へ...男性が突いた「ワニの急…
  • 5
    砂浜で見かけても、絶対に触らないで! 覚えておくべ…
  • 6
    世紀の派手婚も、ベゾスにとっては普通の家庭がスニ…
  • 7
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 8
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 9
    あり?なし? 夫の目の前で共演者と...スカーレット…
  • 10
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
  • 1
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で大爆発「沈みゆく姿」を捉えた映像が話題に
  • 2
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 3
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門家が語る戦略爆撃機の「内側」と「実力」
  • 4
    ワニに襲われた男性の「最期の姿」...捜索隊が捉えた…
  • 5
    定年後に「やらなくていいこと」5選──お金・人間関係…
  • 6
    突然ワニに襲われ、水中へ...男性が突いた「ワニの急…
  • 7
    夜道を「ニワトリが歩いている?」近付いて撮影して…
  • 8
    仕事ができる人の話の聞き方。3位は「メモをとる」。…
  • 9
    サブリナ・カーペンター、扇情的な衣装で「男性に奉…
  • 10
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 3
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 4
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊…
  • 5
    妊娠8カ月の女性を襲ったワニ...妊婦が消えた川辺の…
  • 6
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 7
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事…
  • 8
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 9
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 10
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中