最新記事

芸術祭

あいちトリエンナーレのささやかな「勝利」

2019年10月8日(火)12時00分
仲俣暁生(フリー編集者、文筆家)

展示形態変更後のモニカ・メイヤー〈the clothesline〉 撮影:仲俣暁生

<社会に大きな波紋を投げかけている「あいちトリエンナーレ2019」、この事件の「現場」はどこなのか。そして、そこはいまどうなっているのか......>

9月の上旬、名古屋市と豊田市にある国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」(以下、トリエンナーレと略)の会場のいくつかを一日かけて見てまわった。

すでに多くの報道がなされているとおり、今年8月1日に開幕したトリエンナーレは、来場者に危害を与えることを示唆する脅迫や、攻撃的な抗議が殺到する事態により、出展作の一つである〈表現の不自由展・その後〉が開始3日目で展示中止となり社会に大きな波紋を投げかけた。

同展の中止決定に至る経緯が「検閲」にあたるとして、国内外の参加アーティストの多くがこの決定に抗議する声明文に署名した。過酷な検閲を経験してきた地域のアーティストを中心に、作品の引き上げや展示内容の変更といった動きも起きた。私が名古屋を訪れた前日には田中功起が自作の展示のフレームを「再設定」し、この流れに同調を表明していた。国際的な現代美術展としてトリエンナーレはすでにきわめて不完全な状態にあったが、私はむしろそのような傷ついた状態をこそ目撃しておきたかった。

野次馬根性を超えたもう一つの動機もあった。この事件の「現場」はどこなのか。そして、そこはいまどうなっているのか。〈表現の不自由展・その後〉をはじめ多くの作品展示が中止・変更となった愛知芸術文化センターはトリエンナーレのメイン会場であり、今回の事件の「現場」の一つといっていい。だが参加作家が展示形態を変更した例は名古屋市美術館や豊田市美術館にもあり、大きく考えるならばトリエンナーレ会場全域が「現場」ともいえる。

その一方で、今回の事件の「発火点」は明らかにネット上、とくにSNSだった。前回のあいちトリエンナーレの芸術監督だった港千尋は近著『インフラグラム 映像文明の新世紀』で、断片化された映像や画像が情報化社会のインフラとなり、ブラックボックス化していることを指摘している。あいちトリエンナーレをめぐる騒動は、港のいう「インフラグラム」が起こした事件だった。だからこそ、現実社会においてその「着地点」となるそれぞれの場所がどのような雰囲気に包まれているのか、私はどうしても知っておきたかった。

平穏さのなかで対峙した二つのポリティカルな作品

当日は豊田市内の会場をまわることから始めたが、ちょっとした計算違いがあった。トリエンナーレの一日券を最初に訪れる豊田市美術館で買うつもりでいたところ、「クリムト展 ウィーンと日本 1900」が同時開催されていたため、その入場を待つ客で予想外の長蛇の列ができていた。傷ついた芸術展の姿を目撃するという目的からすると、レニエール・レイバ・ノボの〈革命は抽象である〉をここで見ておきたかったが、列に並んで待つと名古屋市内の会場を見る時間が十分にとれなくなる。豊田市美術館の展示を見ることはやむなく断念した。

豊田エリアで私がいちばん見たかったのは、高嶺格の〈反歌:見上げたる 空を悲しも その色に 染まり果てにき 我ならぬまで〉という巨大な立体作品である。美術館のすぐ脇にある旧豊田東高校の水泳プールの床面を剥がして直立させたこのモノリスの姿を、私はしっかりと目に焼き付けた。 

美術館と駅の間には大正から戦前昭和にかけて料理旅館として使われていた〈喜楽亭〉という建物が移築されており、シンガポール生まれの作家ホー・ツーニェンの映像インスタレーション作品〈旅館アポリア〉が展示されていた。小津安二郎や横山隆一の映画をコラージュし、京都学派の思想家の名などを散りばめた作品で、やはり事前によい評判を聞いていた。この建物に到着した途端、激しい雷雨となったが、豊田市美術館をキャンセルしたおかげで時間に余裕があり、雨やどりがてらこの作品をじっくり鑑賞できた。

ところで高嶺の作品もホー・ツーニェンの作品も、明確にポリティカルな含意のある作品である。とくに後者は、日本がアジア・太平洋地域全域で行った無体な戦争の傷跡が刻み込まれている点で、「表現の不自由展・その後」で焦点となった少女像や天皇をモチーフとした作品と同様である。しかも両作は、警備体制が整った美術館内ではなく、少人数のボランティアが切り盛りするサテライト会場に展示されている。だがいずれの作品が置かれた場も、〈表現の不自由展・その後〉への執拗な抗議からは想像もつかないほど、私の目には平穏そのものに映った。この平穏さも今回のトリエンナーレのもう一つの「現実」なのだ。

豊田駅周辺の小さな展示会場はいくつか取りこぼしたが、ポリティカルで複雑なニュアンスも込められた二作品と静かな環境のもとで向き合えただけでも、十分に豊田市まで足を伸ばした甲斐はあった。

P9043263.JPG

高嶺格〈反歌:見上げたる 空を悲しも その色に 染まり果てにき 我ならぬまで〉

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ビジネス

円債残高を積み増し、ヘッジ外債は縮小継続へ=太陽生

ワールド

中国とインドネシア、地域の平和と安定維持望む=王毅

ビジネス

ユーロ圏経常収支、2月は調整後で黒字縮小 貿易黒字

ビジネス

ECB、6月利下げの可能性を「非常に明確」に示唆=
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:老人極貧社会 韓国
特集:老人極貧社会 韓国
2024年4月23日号(4/16発売)

地下鉄宅配に古紙回収......繁栄から取り残され、韓国のシニア層は貧困にあえいでいる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 2

    価値は疑わしくコストは膨大...偉大なるリニア計画って必要なの?

  • 3

    【画像】【動画】ヨルダン王室が人類を救う? 慈悲深くも「勇ましい」空軍のサルマ王女

  • 4

    「毛むくじゃら乳首ブラ」「縫った女性器パンツ」の…

  • 5

    パリ五輪は、オリンピックの歴史上最悪の悲劇「1972…

  • 6

    人類史上最速の人口減少国・韓国...状況を好転させる…

  • 7

    「イスラエルに300発撃って戦果はほぼゼロ」をイラン…

  • 8

    ヨルダン王女、イランの無人機5機を撃墜して人類への…

  • 9

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 10

    アメリカ製ドローンはウクライナで役に立たなかった

  • 1

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 2

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 3

    NASAが月面を横切るUFOのような写真を公開、その正体は

  • 4

    犬に覚せい剤を打って捨てた飼い主に怒りが広がる...…

  • 5

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 6

    帰宅した女性が目撃したのは、ヘビが「愛猫」の首を…

  • 7

    攻撃と迎撃の区別もつかない?──イランの数百の無人…

  • 8

    「もしカップメンだけで生活したら...」生物学者と料…

  • 9

    温泉じゃなく銭湯! 外国人も魅了する銭湯という日本…

  • 10

    アインシュタインはオッペンハイマーを「愚か者」と…

  • 1

    人から褒められた時、どう返事してますか? ブッダが説いた「どんどん伸びる人の返し文句」

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    88歳の現役医師が健康のために「絶対にしない3つのこと」目からうろこの健康法

  • 4

    ロシアの迫撃砲RBU6000「スメルチ2」、爆発・炎上の…

  • 5

    バルチック艦隊、自国の船をミサイル「誤爆」で撃沈…

  • 6

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 7

    巨匠コンビによる「戦争観が古すぎる」ドラマ『マス…

  • 8

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 9

    1500年前の中国の皇帝・武帝の「顔」、DNAから復元に…

  • 10

    浴室で虫を発見、よく見てみると...男性が思わず悲鳴…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中