最新記事

いとうせいこう『国境なき医師団』を見に行く(フィリピン編1)

やはりマニラは厳しい都市だった

2017年1月10日(火)17時00分
いとうせいこう

マラテ地区へ

 マラテにはMSFのエクスパッツ(外国人派遣スタッフ)の宿舎があった。宿舎といってもハイチのような借りきりの家ではなく、ギリシャのようなアパートメントの一室でもなく、高層中級マンションの部屋だった。

 タクシーを降りた俺と谷口さんは、まず近くのキャバレーみたいなものの前にソファがあり、そこに赤いミニワンピースの制服のようなものを来た若い女の子たちがずらりと座って「っしゃいませー」と高い声を張り上げるのを横目で見た。日本語の店名が看板にはあった。盛り場にしては他がコンビニ、薄暗い通常のホテルと行ったものしかなかった。謎の地区だった。

 俺たちは目指すビルを守る警備員の横を通り、早くもクリスマスの飾りが目立ちつつあるフロントの女性に挨拶し、そのマンション内で活動責任者であるアメリカ人スタッフ、ジョーダン・ワイリーに会って鍵をもらうことになっていると彼女に説明した。

 フロントからジョーダンに電話が行き、俺たちが目指す階がすぐに告げられた。そこで彼は奥さんと2人で俺たちを待っているそうだった。ガラガラと荷物を引いてエレベーターに乗り、目的階のボタンを押し、するすると上へ吊り上げられていくと、やがてドアが左右に開いた。

 そこに背の高い、スキンヘッドで顎と鼻の下に短い髭を生やした屈強な男がいた。それがジョーダンだった。

 「ナイス・トゥー・ミーチュー」

 と握手を交わした俺だが、その横にいる彼の奥さんがあまりにもきれいなので半分現実感を失っていた。あとでエリンさんと名前のわかる、やはりアメリカ人の彼女はハリウッド女優よりも美しい印象で、しかも内面から何かが光る人物だった。

 何か虚構の、つまり映画か何かのVRみたいなものに入り込んだような気に俺はなりつつ、ジョーダンの優しげな笑顔(キアヌ・リーブス似)にも魅入られながら彼らの導く部屋へついて行った。

 そもそもミッションに夫婦で向かうということ自体、珍しいことであるはずだった。俺は羽田で谷口さんから、もうひと組(こちらはスペイン人と日本人)夫婦が滞在していると聞いていた。

 しかも通常は半年から1年程度の任期が多いと聞いていたところが、ジョーダンたちの場合はそうではなかった。なぜかと言えば、そこでスタッフが挑戦している『リプロダクティブ・ヘルスに関わるミッション』と国の状況が他とは根本的に異なる性質を持っているからだった。

 詳しいことはまた別の機会に話そう。

 ともかく現実味のないくらい格好のいい2人に連れられて入った部屋には、さらに3つの部屋があり、リビングダイニングがあった。ただし、そのリビングには段ボール箱が積まれ、中に注射器や保存用の水が入っていた。ミッションに使う道具もまた、その部屋には置かれていたのである。

 ジョーダンは俺たちにそれぞれ小さなビニールの袋を渡した。中には部屋の鍵、主要スタッフ全員の役職と名前と電話番号が表になったコピー用紙が入っていた。

 その説明を軽くしながら、同じマンションに住んでいることをジョーダンは教えてくれた。他のスタッフもそこにいるし、近くのマンションにはまた別のスタッフたちがいることもわかった。

 彼らスタッフが集まるマラテ地区は観光客には評判のあまりよくない場所だが、決して危ないところではないとジョーダンは言った。ただし、ジョーダンは俺たちがこれから取材で連日訪れることになるスラム地区でさえ「言われるほど危険ではない。住人はきわめて親切なんだよ」と評価するのだが。

 翌日の早朝、ビルの下にMSFの日々の迎えの車が来ることをジョーダンは俺たちに丁寧に告げ(迎えが来ること自体がある種のリスク回避なのだが)、にこやかなエリンと仲よく去っていった。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

トランプ氏、クックFRB理事を異例の解任 住宅ロー

ワールド

トランプ米政権、前政権の風力発電事業承認を取り消し

ワールド

豪中銀、今後の追加利下げを予想 ペースは未定=8月

ワールド

エルサルバドルへ誤送還の男性、再び身柄拘束 ウガン
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:健康長寿の筋トレ入門
特集:健康長寿の筋トレ入門
2025年9月 2日号(8/26発売)

「何歳から始めても遅すぎることはない」――長寿時代の今こそ筋力の大切さを見直す時

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット民が「塩素かぶれ」じゃないと見抜いたワケ
  • 2
    皮膚の内側に虫がいるの? 投稿された「奇妙な斑点」の正体...医師が回答した「人獣共通感染症」とは
  • 3
    飛行機内で隣の客が「最悪」のマナー違反、「体を密着させ...」 女性客が投稿した写真に批判殺到
  • 4
    「死ぬほど怖い」「気づかず飛び込んでたら...」家の…
  • 5
    なぜ筋トレは「自重トレーニング」一択なのか?...筋…
  • 6
    顔面が「異様な突起」に覆われたリス...「触手の生え…
  • 7
    アメリカの農地に「中国のソーラーパネルは要らない…
  • 8
    【写真特集】「世界最大の湖」カスピ海が縮んでいく…
  • 9
    「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」(東京会場) …
  • 10
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 1
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 2
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに感染、最悪の場合死亡も
  • 3
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人」だった...母親によるビフォーアフター画像にSNS驚愕
  • 4
    「死ぬほど怖い」「気づかず飛び込んでたら...」家の…
  • 5
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット…
  • 6
    中国で「妊娠ロボット」発売か――妊娠期間も含め「自…
  • 7
    皮膚の内側に虫がいるの? 投稿された「奇妙な斑点」…
  • 8
    なぜ筋トレは「自重トレーニング」一択なのか?...筋…
  • 9
    飛行機内で隣の客が「最悪」のマナー違反、「体を密…
  • 10
    20代で「統合失調症」と診断された女性...「自分は精…
  • 1
    「週4回が理想です」...老化防止に効くマスターベーション、医師が語る熟年世代のセルフケア
  • 2
    こんな症状が出たら「メンタル赤信号」...心療内科医が伝授、「働くための」心とカラダの守り方とは?
  • 3
    「自律神経を強化し、脂肪燃焼を促進する」子供も大人も大好きな5つの食べ物
  • 4
    デカすぎ...母親の骨盤を砕いて生まれてきた「超巨大…
  • 5
    デンマークの動物園、飼えなくなったペットの寄付を…
  • 6
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果…
  • 7
    ウォーキングだけでは「寝たきり」は防げない──自宅…
  • 8
    山道で鉢合わせ、超至近距離に3頭...ハイイログマの…
  • 9
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 10
    将来ADHDを発症する「幼少期の兆候」が明らかに?...…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中