最新記事

国境なき医師団を訪ねる

世界の困難と闘う人々の晩餐─ギリシャの「国境なき医師団」にて

2016年10月14日(金)17時30分
いとうせいこう

 目の前の席に来たジョージ・ダニエルはストライプのシャツの前をはだけ、小さな眼鏡をかけた医師だった。彼は俺が日本から来たと聞いて、すぐに福島の現状を質問してきた。特に放射能被害について、それは本当に大きな災厄だと表現しながら幾つかの医師的な意見を述べた。

 そのあとダニエルは、医師としてミッションに行くのはもうやめたのだと話してくれた。「何時だろうが携帯で呼び出されるのはこりごりだ。あれは医療という名の売春だったよ」

 きついジョークを言う彼はしかしMSFから離れることはせず、ミッションが必要とするはずの医療機器を販売する仕事に転身しながら、現在もMSFギリシャの理事として組織に関わっているのだそうだった。

 その横にいるのは副会長のエレーニ・カカブ。ギリシャ語と英語のちゃんぽんで(なぜなら一人だけオランダのスタッフ、短い髪の男性ビム・デ・グラートがいたから)、彼女はHIVの実例を語っていた。なんでもタイだけがゲイのHIVを見事にコントロール出来ており、薬の投与のタイミングなど含め世界に類を見ないケースになっているらしかった。

「このタイの問題は今、ほんとに話題なの」

 彼女はそう言ってギリシャ風の大きなフェタチーズの乗ったサラダを食べ、ズッキーニのコロッケを食べ、その間に俺たちが2日後にレスボス島の難民キャンプに行くと聞いて、

 「泳ぐといいわ」

 と明るく言い、またタイの話に戻った。エレーニが考えるに、まず第一にタイ保健省がゲイをよく理解しており、感染者を疎外せずに積極的に受け入れたことが大きかった。第二に、家庭にも同じことが言えると彼女は医療関係者でない俺の目までのぞき込んで言った。

 「ゲイに対しても家族のサポートが厚いんです、タイは」

 そんな調子で、MSFギリシャのメンバーは長いテーブルを囲んで実によく議論し、質問しあっていた。谷口さんいわく、それはイタリアとギリシャでよく見る光景なのだそうだった。ギリシャ・ローマ文明と言えば大げさだけれど、薄暗さも気にせずアルコールを飲みながらひたすら語り合っている大人の姿を見ていると、文化の筋力が違う気がした。

 「MSFの総会でも、エリアスはよく手を上げるんです」

1014ito3.jpg

エネルギッシュな男、エリアス

 谷口さんは面白がってそう教えてくれた。その向こうでエリアス自身は当然別な議論に参加していた。彼は若い頃に医学を数年学びかけ(手術の見学中に貧血で倒れ、自分には無理と医学部を中退した、と言っていた)、ロンドン大学で公衆衛生の修士課程を取り、保健政策と医療のバランスをより大きな見地からとらえるのに長けていた。いずれはMSFの活動から大学で教える側に行くはずの人物だった。

 そのエリアスはいまや英国の資本主義の方がきつい、と話していた。アメリカがまだしもだと思えるほどだ、と。その後ろでカーティス・メイフィールドのソウルフルな演奏がかかっていた。店の選曲は七十年代米国R&Bの渋いところを攻めてくれていた。

会長から話を聞く

 じき、ウゾを頼んだ俺を誉めてくれたヒゲ面の、ちょっとヒュー・ジャックマンみたいな風貌の男性が話しかけてきてくれた。彼こそがMSFギリシャの会長、クリストス・クリストウ氏だった。にこやかでありながら、時に目の奥に鋭い眼光がきらめくクリストス氏は、そのあと面白い話を色々教えてくれた。

1014ito4.jpg

MSFギリシャ理事会会長クリストス氏

 まず、MSFと国際環境NGOグリーンピースが組み、エーゲ海や地中海に3隻の船を出しているとのことだった。その協力には多くの議論があったが、しかし海上にひっきりなしに現れる移民ボートを救助し、海岸で待ち受ける医師によって適切な病院に運ぶには、両者の力の連係が必要だった(その活動に関する映像はこちら)。

 また、彼らMSFギリシャの活動は、そもそも市民レベルで培われてきた難民・移民サポートなしにはあり得ないのだ、と自身もウゾを飲み干しながらクリストス氏は言った。

 「元々災害があれば駆けつけたし、資金も送る組織がずっとギリシャにはあったんです。誰かが困っていたらそこにおもむくというのは、人間性そのものの発露に過ぎません。珍しいことじゃない。そうやってギリシャの市民はボランティアを続けてきたんです」

 ここにもまた熱い人間がいたのに気づき、俺はクリストス氏のいうことすべてを聞き取り、メモろうと姿勢を前傾させた。その集中力は酒のせいでもあったかもしれない。


 「さらに僕らの国には経済危機がありました。社会が崩壊するような危険が訪れた。しかし、だからといって難民・移民への心遣いが消えることがなかった。これは奇跡ですよ。草の根運動は継続したんです」

 その事実には学ぶことが多かった。特に草の根運動にも、他国民の困窮に手を差し伸べることにも疎くなっている今の日本人には。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

中国、25年の鉱工業生産を5.9%増と予想=国営テ

ワールド

ゼレンスキー氏、年内の進展に期待 トランプ氏との会

ワールド

オデーサなどで外国船舶損傷、ロシアが無人機攻撃=ウ

ワールド

プーチン氏、領土交換の可能性示唆 ドンバス全域の確
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:ISSUES 2026
特集:ISSUES 2026
2025年12月30日/2026年1月 6日号(12/23発売)

トランプの黄昏/中国AI/米なきアジア安全保障/核使用の現実味......世界の論点とキーパーソン

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 2
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 3
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指すのは、真田広之とは「別の道」【独占インタビュー】
  • 4
    海水魚も淡水魚も一緒に飼育でき、水交換も不要...ど…
  • 5
    「時代劇を頼む」と言われた...岡田准一が語る、侍た…
  • 6
    「衣装がしょぼすぎ...」ノーラン監督・最新作の予告…
  • 7
    「個人的な欲望」から誕生した大人気店の秘密...平野…
  • 8
    アベノミクス以降の日本経済は「異常」だった...10年…
  • 9
    批評家たちが選ぶ「2025年最高の映画」TOP10...満足…
  • 10
    ノルウェーの海岸で金属探知機が掘り当てた、1200年…
  • 1
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 2
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 3
    「食べ方の新方式」老化を防ぐなら、食前にキャベツよりコンビニで買えるコレ
  • 4
    【過労ルポ】70代の警備員も「日本の日常」...賃金低…
  • 5
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指…
  • 6
    海水魚も淡水魚も一緒に飼育でき、水交換も不要...ど…
  • 7
    批評家たちが選ぶ「2025年最高の映画」TOP10...満足…
  • 8
    待望の『アバター』3作目は良作?駄作?...人気シリ…
  • 9
    中国、インドをWTOに提訴...一体なぜ?
  • 10
    懲役10年も覚悟?「中国BL」の裏にある「検閲との戦…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 3
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 4
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした…
  • 5
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 6
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 7
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 8
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入と…
  • 9
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出…
  • 10
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中