最新記事

国境なき医師団を訪ねる

世界の困難と闘う人々の晩餐─ギリシャの「国境なき医師団」にて

2016年10月14日(金)17時30分
いとうせいこう

 クリストス氏はレスボス島の3人の住民がノーベル賞候補に上がったことを例に挙げた。2人はおばあさん、1人は漁師、どちらも普通の島民だった。昨年のシリア難民の漂流に関して彼らは徹底的に力を尽くし、たくさんの人の命を救った。赤ん坊にミルクを飲ませているおばあさんの写真は、世界に配信された。

 それは観光産業で生計を立てる島の普通の人々だった。難民・移民のおかげで訪問者が減っている場所でも、市民運動のネットワークは途絶えることがなかった。それが奇跡なのだ、とクリストス氏は再び強調した。

 「この一連の苦難は、これまでのMSFとは違う大きなチャレンジを我々全世界のメンバーに与えていると思います。単にMSFだけが活動するのではなく、市民と共に救助を行う、継続する、発展させる。そこに新しい道が拓ける」

 うんうんとうなずく俺に、目の澄んだ、そして微笑むと目が細くなってなくなってしまうヒゲ面のMSFギリシャ会長は、また真面目な表情になって言った。


 「2000年に戻りましょう」

 その年のどんな話になるのかと思うと、クリストス氏は続けた。

 「つまりHIVの問題です。エイズが蔓延し、全世界で対応せざるを得なくなった。すると患者とその周囲の人々が自主的に組織化を始め、法的に闘い出したんです。その市民的ネットワークは南アフリカからまさにドミノのように世界へと連鎖しました。そしてARV治療、すなわち抗レトロウィルス薬治療が国際標準となり、コストは一割、時には100分の1にまで下がることさえあった。私はね、現在の難民・移民の問題もこれとよく似ていると思うんです」

 地球的な変化、それもポジティブな流れをクリストス・クリストウ氏は感じていた。あるいは強くアピールしようとしていた。

 この歴史のどん詰まりの前で、彼は決して諦めようとしていなかった。それどころかMSFの活動を市民運動との連帯で拡大させ、自主的で人間主義的な動きへと導いているのだ、と思った。

 MSFギリシャ会長は給料のない地位であることを、俺は谷口さんから聞いた。それでも会議の度に、クリストス氏は現在の住居のあるロンドンからアテネに来ていた。

 残った男たちと彼が二次会へ繰り出す前に俺に伝えた言葉を、是非ここに再現したい。MSFギリシャの会議、その理事会を終えたばかりのクリストス・クリストウ氏はこう言った。


 「理事会でこそ、私のような会長や事務局長は夢を語らなくちゃいけません。誰もが現実的になってしまうから」

 この「夢」という言葉も、前々回の「尊厳」と同じく小馬鹿にされて嘲笑されていいものではない。特に本当に困難に直面し、日々悲惨な事実と向き合っている人々が口にするその言葉、その概念は。

 黙り込む俺に、さらに会長は言った。

 「議論は常に他者を尊敬しているから出来ることです。けれど私たちも西洋的に考えるとついマッチョになり、攻撃して議論に勝とうとしてしまう。そういう理事会の多くによって、我々は大切なものを失ってきました。これこそ反省すべき点です」

 いやはや、なんと深い言葉であったことか。それはギリシャが西洋と東洋のはざまにあるという長い時の向こうに埋もれた真実を、俺の目の前で掘り出してみせるようなものだった。

 すでにギリシャ側の女性は全員三々五々帰ってしまっていた。残ったMSFの男のうちの何人かは肩を並べてレストランを出た。

 俺はあとについてしばらく歩き、自分はこの国で起きていることから目をそむけられないと思った。遠い西洋で起きている無関係な事象ではなかった。それは人類の政治史の問題でもあり、戦争史のひと幕でもあり、哲学と行動の倫理を問う機会でもあり、何よりまず人間がどこまで人間的であり得るかの正念場でもあった。

 やがて彼らの次の店は見つかり、俺たちはエリアスにもダニエルにもビムにもクリストス氏にも固い握手をし、別れを告げた。

 俺としては、正念場の真ん前にいて屈することのない陽気な連中に後方からエールを送るような気持ちだった。

 そして街路樹のスズカケの木の下を宿舎の方へと歩き出しながら、彼らの存在のありようをわずかなりとも書き残さなければたまたま今自分が生きていることの意味がない、とやにわに理解したのだった。

1014ito5.jpg

そして帰り着く

(つづく)

profile-itou.jpegいとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE

※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

プーチン氏、ロ・ベラルーシの合同軍事演習を視察

ワールド

イスラエル、ガザ地区最大都市ガザ市に地上侵攻 国防

ワールド

米、自動車部品に対する新たな関税検討へ 国家安保上

ビジネス

米8月小売売上高0.6%増、3カ月連続増で予想上回
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:世界が尊敬する日本の小説36
特集:世界が尊敬する日本の小説36
2025年9月16日/2025年9月23日号(9/ 9発売)

優れた翻訳を味方に人気と評価が急上昇中。21世紀に起きた世界文学の大変化とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェイン・ジョンソンの、あまりの「激やせぶり」にネット騒然
  • 2
    ケージを掃除中の飼い主にジャーマンシェパードがまさかの「お仕置き」!
  • 3
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる」飲み物はどれ?
  • 4
    腹斜筋が「発火する」自重トレーニングとは?...硬く…
  • 5
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 6
    観光客によるヒグマへの餌付けで凶暴化...74歳女性が…
  • 7
    「日本を見習え!」米セブンイレブンが刷新を発表、…
  • 8
    「なにこれ...」数カ月ぶりに帰宅した女性、本棚に出…
  • 9
    「この歩き方はおかしい?」幼い娘の様子に違和感...…
  • 10
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 1
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれば当然」の理由...再開発ブーム終焉で起きること
  • 4
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 5
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる…
  • 6
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人…
  • 7
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 8
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 9
    埼玉県川口市で取材した『おどろきの「クルド人問題…
  • 10
    観光客によるヒグマへの餌付けで凶暴化...74歳女性が…
  • 1
    「4針ですかね、縫いました」日本の若者を食い物にする「豪ワーホリのリアル」...アジア出身者を意図的にターゲットに
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 4
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 5
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 6
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 7
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 8
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれ…
  • 9
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 10
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中