最新記事

事件

英会話講師を殺した安全な国

イギリス人講師リンゼイ・アン・ホーカー殺害事件の裏には日本の治安への過信があったのか

2009年11月5日(木)16時20分
コリン・ジョイス

戻らない笑顔 殺されたホーカーの写真。遺族は市橋達也容疑者逮捕への協力を呼び掛けた(08年3月、東京) Yuriko Nakao-Reuters

 千葉県行徳にある1軒のバー。欧米人の若者6人が静かに言葉を交わし、ときおり互いを慰めるように肩に手を当てている。入り口には日本人のメディア関係者が頻繁に姿を見せるが、そのたびに丁重な口調で門前払いをくっている。

 テレビがあのニュースを報じると、音楽が消され、会話もやんだ。画面に映ったのは、笑顔を浮かべる魅力的な若い女性の写真。1人の女性が「こんなのばかげてる。ふざけてる」と声を荒らげた。あるイギリス人男性は、ビールのグラスを見つめたまま涙を浮かべた。

 日本に暮らす多くの若い外国人、そしてさらに多くのイギリス人にとって先週、日本は恐怖に彩られた国となった。英会話学校大手NOVAに勤務していたイギリス人講師リンゼイ・アン・ホーカー(22)が殺害された事件は、日本は「安全な国」だと信じていた英会話講師たちを驚愕させた。

 ホーカーの命を奪ったのは、そうした過信だったようだ。千葉県警によれば、ホーカーは3月25日、数日前に知り合った28歳の無職男性、市橋達也容疑者(4月1日時点で死体遺棄容疑で指名手配中)の自宅を訪れた後に殺害された。

 市橋は犠牲者をバー、または西船橋駅で見かけたとみられる。自転車で帰宅するホーカーを家まで追いかけ、会話をした後、水を飲ませてほしいといって部屋へ入ったことがわかっている。市橋はそのとき、自分の名前と電話番号を書いたメモを渡し、英会話の個人レッスンを依頼。不幸にも、ホーカーはその申し出を承諾した。

「少し世間知らずで、人を信用しすぎたのかもしれない」と、ホーカーの知人の1人は言う。「でも、被害者を責めるなよ。彼女が死んだのは、頭のいかれた男に出会ったからだ」

 イギリスでは、ひもで縛られた若い英国人女性の遺体が砂を入れた浴槽から発見されたという恐ろしいニュースを受け、日本から娘を帰国させようとする親が続出している。英リーズ大学在学時からホーカーの親友で、同僚でもあった女性も帰国する予定だという。

 今から思えば、市橋の行動は警戒してしかるべきものだった。「家まで追いかけてきた男のことは心配しないで。日本って変なのよ」――ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の「フェイスブック」に残されたホーカーのメッセージは、結末を知る者にとって痛ましい。

 ただ、生徒の自宅で英会話の個人レッスンをすること自体は、教師が女性で生徒が男性であろうと珍しいことではないと、英会話講師らは口をそろえる。講師の平均年収は300万円ほどで、決して高額とはいえない。かなりの授業時間を受け持たされる一方で休暇が少ないため、2、3年でやめる講師も多い。より実入りがいい個人レッスンは、渡航費や当座の生活資金を埋め合わせるための大切な副業なのだ。

外国人女性が陥るワナ

 ホーカーやその同居人、友人の多くが勤めていたNOVAは、ときに「英会話学校界のマクドナルド」と称される。駅前で定番の存在であるだけでなく、授業が徹底的にマニュアル化されているからだ。そのため英会話教師として正式な教育を受けていない外国人でも、簡単に講師が務まる。

 とはいえ、昨年10月からNOVAで働きはじめたホーカーは、理想的な教師だったようだ。「12月に入学したら、最初の担当講師がリンゼイだった」と、ある23歳の生徒は言う。「気さくでよく笑う、魅力的な人だった」。ある子供のノートには、ホーカーが授業で描いた果物の絵が残っていた。

 日本の英会話講師という職は、多くの外国人にとって「キャリア」というよりも「異国体験の手段」だ。オーストラリアやタイのビーチまで足を延ばすために、貯金をする者もいる。

 だがホーカーにとって、教師は夢だった。来日した父親ウィリアムは記者会見で語った。「教師になるために日本へ行った娘を誇らしく思っていた......誰でも助けようとする優しい子でした。だから、こんなことになったのです」

 日本は安全だという評判は外国人女性にとってワナにもなりうると、日本に長く住む外国人は言う。

「日本人は欧米人に親切だから、信頼していいのだと安心しきってしまう」と、東京在住のイギリス人で、日本に住む外国人女性向けの著書があるキャロライン・ポーヴァーは指摘する。「夜も1人で出歩けるし、好きな格好もできる。日本人男性のほうが、なんとなく肉体的な威圧感も少ない。でも、警戒心を捨ててはいけない」

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ワールド

新ローマ教皇がゼレンスキー氏と電話、外国首脳と初対

ワールド

エジプト、スエズ運河通行料を割引へ フーシ派攻撃で

ビジネス

見通し実現していくか、内外情勢や市場動向を丁寧に点

ビジネス

日経平均3万8000円回復、米中の関税引き下げ好感
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:2029年 火星の旅
特集:2029年 火星の旅
2025年5月20日号(5/13発売)

トランプが「2029年の火星に到着」を宣言。アメリカが「赤い惑星」に自給自足型の都市を築く日

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    心臓専門医が「絶対に食べない」と断言する「10の食品」とは?...理想は「1825年の食事」
  • 2
    カヤック中の女性がワニに襲われ死亡...現場動画に映った「殺気」
  • 3
    ゴルフ場の近隣住民に「パーキンソン病」多発...原因は農薬と地下水か?【最新研究】
  • 4
    母「iPhone買ったの!」→娘が見た「違和感の正体」に…
  • 5
    シャーロット王女の「親指グッ」が話題に...弟ルイ王…
  • 6
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 7
    「出直し」韓国大統領選で、与党の候補者選びが大分…
  • 8
    「がっかり」「私なら別れる」...マラソン大会で恋人…
  • 9
    あなたの下駄箱にも? 「高額転売」されている「一見…
  • 10
    ハーネスがお尻に...ジップラインで思い出を残そうと…
  • 1
    心臓専門医が「絶対に食べない」と断言する「10の食品」とは?...理想は「1825年の食事」
  • 2
    健康は「何を食べないか」次第...寿命を延ばす「5つの指針」とは?
  • 3
    脂肪は自宅で燃やせる...理学療法士が勧める「3つの運動」とは?
  • 4
    5月の満月が「フラワームーン」と呼ばれる理由とは?
  • 5
    部下に助言した時、返事が「分かりました」なら失敗…
  • 6
    シャーロット王女の「親指グッ」が話題に...弟ルイ王…
  • 7
    ロシア機「Su-30」が一瞬で塵に...海上ドローンで戦…
  • 8
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 9
    ついに発見! シルクロードを結んだ「天空の都市」..…
  • 10
    「2025年7月5日に隕石落下で大災害」は本当にあり得…
  • 1
    心臓専門医が「絶対に食べない」と断言する「10の食品」とは?...理想は「1825年の食事」
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    脂肪は自宅で燃やせる...理学療法士が勧める「3つの…
  • 5
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 6
    健康は「何を食べないか」次第...寿命を延ばす「5つ…
  • 7
    「2025年7月5日に隕石落下で大災害」は本当にあり得…
  • 8
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
  • 9
    【クイズ】世界で2番目に「軍事費」が高い国は?...1…
  • 10
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中