村上春樹が40年かけて仕上げた最新作『街とその不確かな壁』...彼が示した「壁」の正体とは
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ヒットメーカー世界中に熱烈なファンがいる村上は、ノーベル文学賞の呼び声も高い AP/AFLO
<世界から愛される村上春樹は「壁」について、皮肉にも2009年にエルサレムで語っている>
村上春樹は、世界中で猛烈な人気がある。日本で1987年に刊行された『ノルウェイの森』は、東アジアの若者の間で文字どおり恋愛のバイブルとなっている。『海辺のカフカ』と『1Q84』は、アメリカで権威あるニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーリストに入った。
どこか現実離れした、あるいは魔法がかった現実的な舞台設定といい、欧米ポップカルチャーの小道具(ジャズやウイスキーや『グレート・ギャツビー』などの小説)といい、村上は最も「非日本的」な日本人作家といえるだろう。伝統的な日本文学の枠に収まらないそのスタイルは、批判の対象になることもある。
村上作品の主人公の多くが、夢の中のような現実離れした世界で孤独を抱えて生きているのは、日本の文壇における村上の経験が影響しているのかもしれない。
『街とその不確かな壁』(日本では2023年4月、英訳は24年11月刊行)で描かれる世界は、これまでにも増して現実離れしている。熱烈なファンにとっては期待どおりかもしれないが、一般の読者には理解を諦めなければならない場面もある。
村上自身、レベッカ・スーター豪シドニー大学教授とのインタビューで、「極めて読みやすくて、極めて不可解な小説を書きたいとずっと思っていた」と語っている。
エルサレムで語った壁の比喩
物語の中心をなすのは、壁に囲まれた街だ。そこには音楽も本もなくて、時間も止まっている。さらに話をする影や、元図書館館長の幽霊、そして、いつも独りぼっちだけれど、読んだ本の内容を全て記憶している少年などが登場する。
珍しいことに、この作品には村上のあとがきがある。それによると、『街とその不確かな壁』は、1980年に文芸誌「文學界」に発表された中編小説『街と、その不確かな壁』を書き直したものだ。村上にとって個人的に重要な要素が含まれていたが、当時31歳の彼には、それを書き切る「筆力」がなかったという。
しかし作家として40年以上のキャリアを積んだ今、「喉に刺さった魚の小骨」のように気になっていたこの作品に、ようやく手を加えて、3部構成の小説に仕立て上げた。
その決断の背景を理解するには、村上が2009年に、イスラエルの文学賞「エルサレム賞」を受賞した時のスピーチが参考になりそうだ。イスラエルはその直前まで、パレスチナ自治区ガザに侵攻して、1000人以上の市民が犠牲となっていた。
村上は、「頑丈な高い壁か、それにぶつかって割れる卵のどちら(に味方する)かと問われたら、私はいつも卵の側に立つ」と断言した。当然ながら、ここでいう「壁」は、イスラエルがパレスチナの抵抗運動を封じ込めるために建設した分離壁を示唆していると受け止められた。
この壁と卵の比喩は、大きな力の差のある二者の対立だけを指しているのではないと村上は言う。誰もが多かれ少なかれ、「システム」という名の高く堅牢な壁に直面しているというのだ。それは本来私たちを守るはずのものだが、「やがて独自の命を得て、人間を冷酷に、効率的に、組織的に殺し始め、さらに私たちに他者を殺すよう仕向ける」。
村上が人々を分断し、傷つける壁の存在に疑問を投げかけているのは明らかだ。だが、小説家という「嘘つきのプロ」(本人弁)が、現実の世界の深刻な問題にどう対処すればいいのか。『街とその不確かな壁』は、そんな問いに対する村上なりの答えなのかもしれない。
この小説で描かれる壁は、びくともしない堅牢な壁ではなく、常に形を変えて、捉えどころがない壁だ。それは主人公が高校生のとき、作文コンクールの授賞式で出会った15歳の少女の想像の産物だ。彼女は、「本当のわたし」が暮らしているのは、壁に囲まれた街の中で、この世界にいるのは自分の影だと言う。
壁の本質を見破る「影」
2人は恋に落ちるが、やがて少女はふっつりと姿を消してしまう。主人公の頭に残るのは(そして現実味を帯びていくのは)、彼女が語った「壁に囲まれた街」だ。
やがて中年になった主人公は、ひょんなきっかけで、その街にやって来る。ただし、街に入るためには、門衛によって眼に傷をつけられ、影を引き剝がされなければならない。だが、そのおかげで、彼は街の図書館で「古い夢」を「読む」仕事に従事する資格を得る。その仕事を助けるのは、15歳の姿のままの少女だ。
村上は、壁に囲まれた街が持つ明白かつ直接的な意味を、読者が簡単に見つけることを許さない。その街は、住民が穏やかに暮らす牧歌的な場所に感じられる時もあれば、何かに支配された、不吉な場所のように感じられる時もある。
その正体を暴こうとする時、重要な役割を果たすのが「影」だ。主人公とは別の人格(的なもの)を持つ影は、門衛に引き剝がされて、弱っていくなかで、壁の本質に思い当たる。すなわち、壁は人間がこしらえた幻想にすぎないというのだ。
街も壁も、人々がその存在を誰かに語ることにより生まれ、経験され、永続化する。それを理解すれば、頑強だと思い込み、自分を閉じ込めてきた壁を乗り越えられる──。
この幻想を打ち破るべきだと、影は主人公を説得する。柔軟に形を変えて、いつも目の前に立ちはだかろうとする壁の声に「耳を貸しちゃいけません」と、影は言う。「相手の言うことを信じなければ、恐れなければ、壁なんて存在しません」
『街とその不確かな壁』は、物語とそれを語る人たちをたたえる。その上で、私たちが引きこもるために、あるいは他人を追い払うために建てた壁が、実は穴だらけであることを思い出させてくれる。反対側にいる自分の影に注意深く耳を傾ければ、びくともしないように見えた壁は、ずっと不確かなものになるのだ。
その理解は、読者の想像力を解き放ち、自分とは異なる立場への寛容性をもたらし、複数の真実が存在する可能性に目を開かせてくれる。
村上もあとがきで、「真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある」と言っている。そして、「それが物語というものの神髄ではあるまいか」と問いかける。
The Conversation
Jindan Ni, Senior Lecturer, Global and Language Studies, RMIT University
This article is republished from The Conversation under a Creative Commons license. Read the original article.

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