最新記事

医療

医学部で人生初の解剖、人体が教科書通りでないことにほっとした気持ちになった

2020年11月18日(水)21時20分
ニューズウィーク日本版ウェブ編集部

(ああ、なんで今頃思い出すんだ。遅いじゃないか。もう、腹一杯に飯を食ってしまった)

教官に導かれて分厚い鉄の扉を重々しく開き、実習室に足を踏み入れる。そこは体育館くらいの広さがあった。整然と実習台が並んでいて、その台の上に白い布に覆われた人の形が盛り上がっている。指定された実習台の前にぼくは進んだ。ご遺体を前にして、3人の学生......男子2人と女子1人は強ばった顔つきをしていた。きっとぼくも同じ表情だろう。

この布の下に亡くなった人間がいるのかと思うと、やっぱり怖い。でも大江健三郎の『死者の奢り』(新潮文庫)という小説を読むと、ご遺体はホルマリンの水槽の中に密になって浮かんだり沈んだりしていると書いてあったので、自分で実習台まで運ばなくて済んだのは助かったと思った。

まずぼくたちは全員で黙禱を捧げた。それが終わると教官が黒板にササッと本日の解剖の要点を箇条書きにし、実習書のページ番号を指示した。

「はい、じゃあ、始めてください」

え、それだけ! という感じである。いきなりもう始まるのか。ぼくは仲間の顔を順番に見てから、布をゆっくりとめくっていった。3人から息を飲む気配が伝わってきた。

ぼくの担当は下半身だった。誰が最初にメスを入れるのか? ほかのグループの様子を窺うと、みんな戸惑っているようだった。ぼくは解剖実習書に目をやり、皮膚の切開線を確認するとメスを握った。同級生たちは開成や桜蔭出身の良家の子女である。一方、ぼくはどんじり医学生だ。最初に切るのはぼくしかいない。ぼくは心の中でご遺体に向かって、よろしくお願いしますと声を出し、サッとメスを入れた。吐き気なんて感じる間もなかった。こうして解剖の日々が始まった。

***

実習は予想したよりはるかに難しかった。教科書にはここを切れば、○○という神経があると書いてあるが、それが簡単に見つからない。メスを進めて懸命に探すとようやく行きあたる。その○○神経は足先に伸びたあと、2本に分かれ......などと書いてあるが、それが3本に分かれていたり、分かれる位置が教科書とは全然異なることが往々にしてあった。

こうした解剖学的な変異(バリエーション)を破格という。人間の体の中は、破格の連続だった。ぼくは人体が教科書通りでないことに何かほっとした気持ちになった。考えてみれば、目の前のご遺体にも何十年に及ぶ豊かな人生があったはずである。そして何かの事情や決意で自分の体を医学教育に役立てようと献体したのだ。人間の人生には一人ひとり個性とかバリエーションがある。だったら、体の中にだって破格があった方が人間くさくていいじゃないか。

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ビジネス

トランプ氏対FRBの構図、市場が波乱要素として警戒

ワールド

トランプ氏、プーチン氏と近く協議と表明 ロシア「迅

ワールド

関税下げの米大統領令署名、重要な一歩として歓迎=加

ワールド

シェフチョビッチ欧州委員、来週インド訪問 自由貿易
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:豪ワーホリ残酷物語
特集:豪ワーホリ残酷物語
2025年9月 9日号(9/ 2発売)

円安の日本から「出稼ぎ」に行く時代──オーストラリアで搾取される若者たちの実態は

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    【動画あり】9月初旬に複数の小惑星が地球に接近...地球への衝突確率は? 監視と対策は十分か?
  • 2
    「怖すぎる」「速く走って!」夜中に一人ランニングをする女性、異変を感じ、背後に「見えたモノ」にSNS震撼
  • 3
    「よく眠る人が長生き」は本当なのか?...「睡眠障害」でも健康長寿な「100歳超えの人々」の秘密
  • 4
    「生きられない」と生後数日で手放された2本脚のダ…
  • 5
    「あのホラー映画が現実に...」カヤック中の男性に接…
  • 6
    50歳を過ぎても運動を続けるためには?...「動ける体…
  • 7
    【クイズ】世界で2番目に「農産物の輸出額」が多い「…
  • 8
    世論が望まぬ「石破おろし」で盛り上がる自民党...次…
  • 9
    SNSで拡散されたトランプ死亡説、本人は完全否定する…
  • 10
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 1
    東北で大腸がんが多いのはなぜか――秋田県で死亡率が下がった「意外な理由」
  • 2
    1日「5分」の習慣が「10年」先のあなたを守る――「動ける体」をつくる、エキセントリック運動【note限定公開記事】
  • 3
    50歳を過ぎても運動を続けるためには?...「動ける体」をつくる4つの食事ポイント
  • 4
    「怖すぎる」「速く走って!」夜中に一人ランニング…
  • 5
    豊かさに溺れ、非生産的で野心のない国へ...「世界が…
  • 6
    25年以内に「がん」を上回る死因に...「スーパーバグ…
  • 7
    【動画あり】9月初旬に複数の小惑星が地球に接近...…
  • 8
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 9
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害…
  • 10
    首を制する者が、筋トレを制す...見た目もパフォーマ…
  • 1
    「自律神経を強化し、脂肪燃焼を促進する」子供も大人も大好きな5つの食べ物
  • 2
    デンマークの動物園、飼えなくなったペットの寄付を呼びかけ ライオンのエサに
  • 3
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 4
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 5
    山道で鉢合わせ、超至近距離に3頭...ハイイログマの…
  • 6
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 7
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 8
    将来ADHDを発症する「幼少期の兆候」が明らかに?...…
  • 9
    デカすぎ...母親の骨盤を砕いて生まれてきた「超巨大…
  • 10
    イラン人は原爆資料館で大泣きする...日本人が忘れた…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中