コラム

タランティーノの「歴史認識」とは?

2009年09月02日(水)14時39分

 カンヌ映画祭で好評を博したらしい、そして第2次大戦を描いた作品・・・クエンティン・タランティーノ監督の最新作『イングロリアス・バスターズ』については、そのぐらいの前提知識しかありませんでした。ですから、そんな私には「タランティーノも遂に巨匠的な作品を作りたくなったのでは?」とか「暴力表現への批判に耐えられなくなって無難な勧善懲悪の映画を出してきたのでは?」という不安が多少あったのです。

 ですが実際の作品を見てそうした不安は吹っ飛びました。タランティーノはこの作品において、完璧なまでにタランティーノであり、むしろ進化しているとすら言えると思います。敵対する同士が抑えたトーンの会話を進める中でテンションを高め、観客が心理的に耐えられなくなるギリギリまでに引っ張っておいて、最後は期待(?)をはるかに上回る暴力表現で劇性の極致を画面にぶちまける、アクションの中にコミカルな要素を散りばめ、そのコミカルな要素を異常なまで洗練することでコミカルな要素を「救い」ではなく「ピリ辛のスパイス」として機能させる・・・そうしたタランティーノ節が2時間半の長尺という悠然たるペースを作り上げていました。一言で言えば、B級の表現で組み立てていってA級に仕上げるという感じで、正に面目躍如というところです。

 この映画は冒頭シーンのサスペンスを含めて、細部に関しては事前知識がない方が楽しめると思うので一切の「ネタバレ」は控えます。ただ、「テネシー方言」を駆使しユニークなキャラクターを徹底的に造形したブラッド・ピット、ユダヤ人狩りのプロである冷血なSS(ナチスの親衛隊員)を演じてカンヌで主演男優賞を獲得したオーストリア人俳優クリストフ・ヴァルツ、そしてこれまでの作品ではユマ・サーマンが務めることが多かった「タランティーノ作品のヒロイン」をフランスの女優メラニー・ロランがキラキラと輝くように演じていた、こうした演技のアンサンブルについてはただただ素晴らしかったと申し上げておくことにします。

 中には『パルプ・フィクション』を超えた最高傑作という声もあるぐらいですが、「アメリカ」という世界を舞台に英語のレトリック(ナンセンスなものも含めて)を駆使した脚本が光る『パルプ・フィクション』とは比べるのは難しいと思います。この『イングロリアス・バスタード』はブラッド・ピットを中心とした反ナチ工作員の出てくる場面以外は、台詞のほとんどがドイツ語とフランス語(一部怪しいイタリア語も)で貫かれているからです。そのフランス語とドイツ語の部分については、それぞれがフランス語的、ドイツ語的な言い回しが少ない無機質な「翻訳調」なのですが、これはこれで「言語のニュアンスを消して、表情や沈黙の質など非言語のドラマに観客を集中させる」という独特の表現を試している、そう理解すべきでしょう。

 それにしても、公開3週間弱の現時点で売り上げ7500万ドルというのは「晩夏」のこの時期としてはすごい数字です。この分だと興収も『パルプ・フィクション』を抜いてタランティーノ作品中最大のヒットになるでしょう。さて、タランティーノとしては初めての「第2次大戦もの」ということで、その「歴史認識」はどうかという興味もあったのですが、この点については特別な仕掛けはありませんでした。ナチスはあくまで極悪非道の存在であり、ナチス占領下のフランスを舞台に、弾圧を受けたユダヤ人やレジスタンスの側は見事なまでに善玉として描かれています。ドイツ人の人気女優ダイアン・クルーガーなども画面の中で生き生きと活躍しており、そこには何のわだかまりもありませんでした。

 この『イングロリアス・バスターズ』を観て思ったのですが、このアッケラケンとした「わだかまりのなさ」は確かにアジアにおける「歴史認識がもたらす緊張」とは異質なものだと思います。つまり。EUにおいては、現在の経済格差とかナショナリズムのすれ違いなどを過去の歴史認識に結びつけて「対立を煽る」習慣がなくなって久しいのです。ドイツに反省があり、統一後の独仏関係を良好にするためにドイツがEUに組み込まれたという歴史があるにしても、それも既に上の世代が完結させていることであり、とにかく「今の世代のトラブル」に歴史認識の話を持ち込んで、過去の話を現在の対立にすり替えることは止めている、「わだかまりのなさ」とはそうした意味だと思います。ナチズムやホロコーストといったシリアスな問題が、タランティーノのようなアメリカ人によって「ナンセンスで暴力的な娯楽」の題材にされても、ヨーロッパの人々が平気だというのはそういう理解ができると思います。

 今現在、日本と中国の世論の間にわだかまりがあるのは事実なのですが、その核にあるのは「日本は小国のくせに自分たちよりもずっと前から繁栄していて悔しい」という中国側の感情と「中国がこのまま成長を続ければ自分たちは追い越され呑み込まれてしまう」という日本側の不安感情であり、それが威勢のいいナショナリズム的な言動のウラに隠れているのだと思います。つまり両者ともに、核にあるのは単純な自分たちの自尊心不足なのですが、それを棚に上げて相手への嫉妬や恐怖を抱き、その愚かな感情に勢いを加えるために第2次大戦という「世代的に全く関係のない過去の話」を持ち出しているだけなのだ、そう思います。

 タランティーノに「歴史認識」を期待した私は愚かでした。そんなものはなかったのであり、この映画には関係がないのです。そもそも面白いドラマにするためなら、歴史的事実もほとんど無視してかかっているぐらいなのですから。そんな見事なまでのタランティーノ節に淡々と、いや溌剌として参加しているドイツ、フランス、オーストリア、カナダなどの役者たちは立派だと思います。彼らの演技、そしてブラピの怪演ということも加えて考えますと、この『イングロリアス・バスタード』は傑作として映画史に残ってゆくかもしれません。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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