コラム

ソ連時代の呪縛から解き放たれていくイスラエルの夫婦の姿『声優夫婦の甘くない生活』

2020年12月17日(木)17時20分

夫婦の亀裂に込められた「沈黙のユダヤ人」に関わる深い意味

では、ルーマン監督はなぜ自分の少年時代ではなく、彼の両親やそれより上の世代の体験に光をあてることにしたのか。そこには、深い意味が込められている。

ヴィクトルとラヤの第二の人生に対する考え方にはズレがある。ラヤはそれを、新しいことを始める機会ととらえている。これに対してヴィクトルは、声優業に固執する。彼は自分の吹き替えに誇りを持ち、評価もされ、特にフェリーニに傾倒している。

しかし、彼が固執する理由を映画愛だけだと思ってしまうと、本作の魅力は半減する。見逃せないのは、本作に巧妙に埋め込まれた伏線だ。70年代にイスラエルに移住し、映画業界で働くヴィクトルの友人は、久しぶりに再会した彼に、吹き替えの代わりに新設されたばかりのロシア劇場の仕事を紹介しようとするが、彼は二の足を踏む。その後の夫婦のやりとりで、実は彼が昔、舞台に憧れていたことがわかる。

ヴィクトルはなぜ舞台を諦め、声優になったのか。そのヒントは、まともな仕事が見つからないヴィクトルが、妻に内緒でロシア劇場のオーディションを受ける場面で示される。彼はマーロン・ブランドになりきって、『波止場』の一場面を演じる。それを見た舞台監督は、今度はブランドふうではなく、自分の思う通りに演じるように指示する。すると彼は黙り込んでしまう。

この舞台をめぐる伏線はなにを意味するのか。キーワードになるのは「沈黙のユダヤ人」だ。前掲書ではそれが以下のように説明されている。


 「旧ソ連出身の移民は、イスラエル史上最低と言えるほどにユダヤ人という自覚が薄い。帝政ロシアでも、共産党政権時代にも、反ユダヤ主義が政府の公式方針だったからだ。攻撃的な無神論が支配していた七〇年間、ボリスの一家のような、『沈黙のユダヤ人』と呼ばれる家族が何百万もあった」

ヴィクトルの場合は、ユダヤ人の自覚が薄いわけではない。彼のソ連時代の境遇は、「いつも心はユダヤ人だった。家ではイディッシュ語だしな」という台詞に端的に示されている。まさに「沈黙のユダヤ人」といえる。

それを踏まえるなら、ヴィクトルがなぜ舞台を諦め、吹き替えに固執するのかも容易に察することができるだろう。舞台では、ユダヤ人である自分を表現することはできない。だから、声優として他者になりきることにのめり込んできた。突き詰めれば、ラヤは、他者になりきることに囚われた夫と生活を共にしてきたことになる。

つまり、夫婦の亀裂には、「沈黙のユダヤ人」に関わる深い意味が込められている。ルーマン監督は、自分よりも上の世代の移民の複雑な心理をよく理解し、ソ連時代の呪縛から解き放たれていく夫婦の姿を実に鮮やかに描き出している。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

印自動車大手3社、6月販売台数は軒並み減少 都市部

ワールド

米DOGE、SEC政策に介入の動き 規則緩和へ圧力

ワールド

米連邦職員数、トランプ氏の削減方針でもほぼ横ばい

ワールド

イラン、欧州諸国の「破壊的アプローチ」巡りEUに警
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプvsイラン
特集:トランプvsイラン
2025年7月 8日号(7/ 1発売)

「平和主義者」のはずの大統領がなぜ? 核施設への電撃攻撃で中東と世界はこう変わる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    ワニに襲われた男性の「最期の姿」...捜索隊が捉えた発見の瞬間とは
  • 2
    ワニに襲われ女性が死亡...カヌー転覆後に水中へ引きずり込まれる
  • 3
    仕事ができる人の話の聞き方。3位は「メモをとる」。2位は「身を乗り出す」。では、1位は?
  • 4
    突然ワニに襲われ、水中へ...男性が突いた「ワニの急…
  • 5
    砂浜で見かけても、絶対に触らないで! 覚えておくべ…
  • 6
    世紀の派手婚も、ベゾスにとっては普通の家庭がスニ…
  • 7
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 8
    あり?なし? 夫の目の前で共演者と...スカーレット…
  • 9
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 10
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
  • 1
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で大爆発「沈みゆく姿」を捉えた映像が話題に
  • 2
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 3
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門家が語る戦略爆撃機の「内側」と「実力」
  • 4
    ワニに襲われた男性の「最期の姿」...捜索隊が捉えた…
  • 5
    定年後に「やらなくていいこと」5選──お金・人間関係…
  • 6
    突然ワニに襲われ、水中へ...男性が突いた「ワニの急…
  • 7
    夜道を「ニワトリが歩いている?」近付いて撮影して…
  • 8
    仕事ができる人の話の聞き方。3位は「メモをとる」。…
  • 9
    サブリナ・カーペンター、扇情的な衣装で「男性に奉…
  • 10
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 3
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 4
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊…
  • 5
    妊娠8カ月の女性を襲ったワニ...妊婦が消えた川辺の…
  • 6
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 7
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事…
  • 8
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 9
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 10
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story