コラム

「インドの9・11」ムンバイ同時多発テロを描く、『ホテル・ムンバイ』

2019年09月26日(木)19時00分

このふたつの視点は、トラウマについて考えてみたときにその違いが明確になる。テロをインドの9・11ととらえるなら、本作は、事件に起因するトラウマを乗り越えようとする意味を持つ。一方、後者の視点に立てば、トラウマの原因は過去にあり、過去との繋がりをあらためて確認するような意味を持つことになる。ちなみに本作の冒頭では、タクシーで標的に向かう実行犯たちに、テロの首謀者が無線で「周りを見ろ、兄弟。奴らが奪ったものを。お前たちの父親と先祖から奪ったのだ」と語りかけている。

では、分離独立に起因するトラウマとはどのようなものなのか。筆者が思い出していたのは、インド出身の作家アミタヴ・ゴーシュが書いた『シャドウ・ラインズ 語られなかったインド』のことだ。ゴーシュ自身の体験も反映しつつ、分離独立の影響を独自の視点で掘り下げたこの物語には、主人公が感じている恐怖が以下のように綴られている。


「それは、いつもの状態というものはまったくの偶然から成り立っていて、自分を取り囲む空間や自分の住む通りが、突然の洪水に見舞われた砂漠のように、不意になんの警告もなしに敵対的存在になり得るとわかったときに生まれる恐怖なのだ。インド亜大陸に住む十億の人々を世界のほかの部分から区別しているのは、この点だ。言語でも、食べ物でも、音楽でもない。それは、自分自身と鏡の中に映る自分とがいつか戦いを始めるのではないか、という恐怖から生まれる特殊な孤独感なのだ」

oba0926b_.jpg

『シャドウ・ラインズ 語られなかったインド』アミタヴ・ゴーシュ 井坂理穂訳(而立書房、2004年)

3人の人物が持つ意味とは......

そんなことを踏まえてみると、本作に登場する3人の人物が特に興味深く思えてくる。

まず、主人公ともいえる給仕のアルジュン。彼は、少数派のシーク教徒に設定されている(彼を演じたデヴ・パテルの発案だという)。本作の導入部では、アルジュンが鏡を見ながら、ターバンを丁寧に頭に巻く姿が映し出される。それはある種の伏線にもなっている。襲撃後、従業員は宿泊客を集め、堅牢なラウンジに避難させるが、そこで給仕長に呼ばれたアルジュンは、「あのイギリスの女性だが、ヒゲに不安を、そのターバンもだ。少しキッチンに下がっていてくれ」といわれる。

それは、彼にとってその日最初の個人的なトラブルではない。靴を落としてきた彼は、厳格な料理長から仕事を外されかけていた。しかし、そんなミスとターバンのせいで危険人物のように見られることはまったく違う。その後のやりとりによって、彼がシーク教徒としての人格を否定されたように感じていたことがわかる。彼の勇敢な行動は、自分の誇りを守ろうとすることと無関係ではない。

次に、富豪の娘ザーラ。彼女の背景はわかりにくいが、ヒントになるようなエピソードが盛り込まれている。彼女がレストランに潜んでいるとき、そばにいたロシア人の実業家が「これを頭に巻け。彼らの仲間だとわかるように」といって、ショールのようなものを投げてよこす。彼女は「仲間じゃないわ」と答えて拒絶する。さらに、避難したラウンジでは、アルジュンのターバンを恐れた老婦人が、母親と電話で話すザーラの会話を聞いていて、「奴らの一味よ。奴らの言葉を」といって騒ぎ出す。

ザーラはイスラム教徒のイラン人で、電話ではペルシャ語で話している。そんな背景が終盤で大きな意味を持つことになるが、その前に、実行犯のひとりであるイムランに触れておくべきだろう。救援に来た警官に撃たれ、足を負傷したイムランが気にかけているのは、本当に家族に金が支払われるかどうかだ。そんな彼は終盤でザーラに銃を向けるが、彼女が祈りの言葉を唱えているのを耳にする。信仰に厚い彼は激しく動揺していく。

本作は、9・11に通じるテロやホテルの従業員の勇気を描くだけではなく、個人の複雑な葛藤に歴史の歪みやいまだ拭えないトラウマを垣間見ることができる。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

ゼレンスキー氏、和平協議「幾分楽観視」 容易な決断

ワールド

プーチン大統領、経済の一部セクター減産に不満 均衡

ワールド

プーチン氏、米特使と和平案巡り会談 欧州に「戦う準

ビジネス

次期FRB議長の人選、来年初めに発表=トランプ氏
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:日本時代劇の挑戦
特集:日本時代劇の挑戦
2025年12月 9日号(12/ 2発売)

『七人の侍』『座頭市』『SHOGUN』......世界が愛した名作とメイド・イン・ジャパンの新時代劇『イクサガミ』の大志

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    大気質指数200超え!テヘランのスモッグは「殺人レベル」、最悪の環境危機の原因とは?
  • 2
    トランプ支持率がさらに低迷、保守地盤でも民主党が猛追
  • 3
    海底ケーブルを守れ──NATOが導入する新型水中ドローン「グレイシャーク」とは
  • 4
    若者から中高年まで ── 韓国を襲う「自殺の連鎖」が止…
  • 5
    「世界一幸せな国」フィンランドの今...ノキアの携帯…
  • 6
    もう無茶苦茶...トランプ政権下で行われた「シャーロ…
  • 7
    【香港高層ビル火災】脱出は至難の技、避難経路を階…
  • 8
    22歳女教師、13歳の生徒に「わいせつコンテンツ」送…
  • 9
    人生の忙しさの9割はムダ...ひろゆきが語る「休む勇…
  • 10
    7歳の息子に何が? 学校で描いた「自画像」が奇妙す…
  • 1
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで墜落事故、浮き彫りになるインド空軍の課題
  • 2
    【最先端戦闘機】ミラージュ、F16、グリペン、ラファール勢ぞろい ウクライナ空軍は戦闘機の「見本市」状態
  • 3
    7歳の息子に何が? 学校で描いた「自画像」が奇妙すぎた...「心配すべき?」と母親がネットで相談
  • 4
    100年以上宇宙最大の謎だった「ダークマター」の正体…
  • 5
    【クイズ】次のうち、マウスウォッシュと同じ効果の…
  • 6
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 7
    128人死亡、200人以上行方不明...香港最悪の火災現場…
  • 8
    【寝耳に水】ヘンリー王子&メーガン妃が「大焦り」…
  • 9
    【銘柄】関電工、きんでんが上昇トレンド一直線...業…
  • 10
    子どもより高齢者を優遇する政府...世代間格差は5倍…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 3
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎の存在」がSNSで話題に、その正体とは?
  • 4
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」は…
  • 5
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 6
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸…
  • 7
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 8
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 9
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 10
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story