コラム

日本経済はいつ完全雇用を達成するのか

2016年12月05日(月)12時50分

為替と物価との間の微妙な関係

 日本のインフレ率が2015年末まで一時的にせよ上昇したのは、おそらくその時期まで続いた為替の円安効果によるものであろう。ドルの対円レートは、リーマン・ショック後の世界不況の中で下落し続け、民主党政権下の2012年初頭には1ドル70円台後半までドル安円高が進んでいた。しかし、その円高トレンドは、2012年9月の自民党総裁選で現在の安倍首相が「金融政策の転換」を訴えて予想外の勝利を得たことを契機に反転した。そこで生じた円安トレンドは、黒田日銀の異次元金融緩和によってさらに加速し、2015年夏には遂に1ドル120円を越えるまでのドル高円安となっていた。つまり、ドルに対して3年間でほぼ50%程度の円安が実現されたわけである。

 短期間にこれだけの円安が進むと、それは当然、国内の物価にも大きな影響を与える。ごく単純にいえば、円安が進めば輸入財の円建て価格が上昇するので、それが国内価格に転嫁される分だけ、国内物価は上昇する。実際、この円安期の物価上昇については、黒田日銀の異次元金融緩和に批判的な論者の一部からは、「円安による輸入原材料の価格上昇が転嫁されたコストプッシュ・インフレにすぎず、景気回復につながるどころか、むしろ消費減少を招いている」といった批判がしばしば聞かれた。

 この批判そのものについていえば、消費税増税というきわめて大きな負の需要ショックにもかかわらず、この円安期にまさにバブル期以来の雇用改善が実現されたことを考えれば、円安は景気回復につながらないという主張がまったくの的外れであったことは明らかである。

 金融緩和批判派からは当時、「日本企業は円高期に製造拠点を海外に移してしまっているので、円安になっても輸出は伸びない」といった主張がよく聞かれた。仮にそうだったとしても、輸出は製造品だけには限らないのである。この円安期には、日本を訪れる外国人旅行者数は2倍以上に増え、彼らによる「爆買い」がしばしば話題になった。それは、円安によって日本からのサービス輸出が爆発的に拡大したことを意味している。

 円安はまた、単に輸出だけでなく、輸入財から国内の輸入競争財への代替を通じても、景気回復に寄与する。円安期にはよく「海外旅行が割高になったので国内旅行に切り換えた」という話を聞くが、それで国内の観光産業が潤うとすれば、それはまさに円安による国内代替の効果なのである。同じことは当然、国内の他産業でも生じる。

 そもそも、「開放経済における金融緩和は、単に国内金利の低下を通じてだけでなく、自国通貨安という為替チャネルを通じて効果を発揮する」というのは、マクロ経済学の基本理論であるマンデル=フレミング・モデルの最も主要な結論である。この円安期に日本経済に生じたことは、その経済学の基本命題の再確認にすぎない。

 他方で、こうした円安による国内経済の拡大が、そのまま直接的に需給ギャップの縮小を通じたインフレ圧力として作用したかといえば、それもまた疑わしい。というのは、上述のように、この円安期には、雇用改善と失業率低下にもかかわらず、名目賃金の十分な上昇は生じなかったからである。国内で生産される財貨サービスの付加価値の約7割を占める賃金(雇用者報酬)の上昇がない限り、物価の持続的な上昇は生じ得ない。

 要するに、2015年までの日本の物価上昇は、需要拡大を通じた国内発のホームメード・インフレというよりは、円安による輸入財価格の上昇を通じた輸入インフレの性格が強かったということである。2015年末からの円高への反転を契機に、それまで上昇し続けていたインフレ率が腰折れしたのは、そのことを裏付けている。

プロフィール

野口旭

1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

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