コラム

薄っぺらで気持ち悪い在日タブーを粉砕した映画『月はどっちに出ている』の功績

2021年11月25日(木)17時55分
『月はどっちに出ている』

ILLUSTRATION BY NATSUCO MOON FOR NEWSWEEK JAPAN

<原作・監督・脚本は全員在日。重いテーマがコメディだからこそ深く刺さる。画期的な作品『月はどっちに出ている』が、邦画の世界にもたらした影響とは?>

新宿梁山泊の公演に通った時期がある。かつて新劇の養成所に所属していた頃の同期の友人で、その後に状況劇場に所属した黒沼弘己が旗揚げのメンバーだったからだ。

その黒沼や代表の金守珍(キム・スジン)、六平(むさか)直政などの顔触れが示すように、旗揚げ時の新宿梁山泊は、状況劇場の分派的な色合いが強かった。でもすぐに独自路線を歩み始める。その原動力の一つが、座付き作家として戯曲を書き続けた鄭義信(チョン・ウィシン)の存在だ。

公演終了後は、テント内で行われる打ち上げにも参加した。焼酎が入った紙コップを手に大きな声でしゃべるウォンシルさんを知ったのはその頃だ。その外見と声で、舞台では極道や暴力的な男の役が多かったウォンシルさんは、最初はちょっと怖かったけれど、実はシャイで人懐っこい男だった。

文学座同期の松田優作に、俺は(在日であることを)カミングアウトしたけれどおまえはしないのか、と言ったことがあるとか、娘が2人いて長女はダウン症だとか、今の生活は配膳会のバイトで支えているとか、切ない話もいろいろ聞いた。でもいつもウォンシルさんは豪快に笑っていた。直情径行。実はデリケート。裏表がない。大好きな人だった。

『月はどっちに出ている』は、そのウォンシルさんのスクリーン・デビュー作だ。原作は梁石日(ヤン・ソギル)で監督は崔洋一。そして脚本は崔と鄭義信だ。全て在日。画期的だ。1993年のキネマ旬報日本映画ベスト・テンで本作は1位となり、監督賞、脚本賞、主演女優賞まで獲得している。

その影響は大きい。この映画以降、行定勲が監督した『GO』や崔洋一の『血と骨』、井筒和幸の『パッチギ!』など、在日を正面から取り上げる作品が増えた。言い換えれば、この少し前の井筒の『ガキ帝国』と共に、それまでの(薄っぺらで根強くて気持ち悪い)在日タブーを、この作品は邦画の世界で粉砕した。

ロバート・アルトマンを彷彿させる長回しから映画は始まる。全編通してトーンはコメディー。だからこそ重いテーマが深々と突き刺さる。

主人公の姜忠男が運転するタクシーに乗った若いサラリーマンは酔っぱらって上機嫌のまま、忠男の名字の「姜(カン)」を、何度訂正しても「ガ」と呼び続ける。つまり名前を呼びながら名前に興味がない。さらに乗り逃げ。帰社した忠男に同僚が言う。「チューさん(忠男)のことが好きだ。朝鮮人は嫌いだけど」

差別と被差別。する側とされる側。集団になったとき、人は振る舞いを変える。相手も個ではなく集団の一部になる。こうして一人一人は無意識で善良なまま人を傷つける。

プロフィール

森達也

映画監督、作家。明治大学特任教授。主な作品にオウム真理教信者のドキュメンタリー映画『A』や『FAKE』『i−新聞記者ドキュメント−』がある。著書も『A3』『死刑』など多数。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、グリーンランド特使にルイジアナ州知事を

ビジネス

午前の日経平均は大幅続伸、5万円回復 AI株高が押

ワールド

韓国大統領府、再び青瓦台に 週内に移転完了

ビジネス

仏が次世代空母建造へ、シャルル・ドゴール後継 38
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:教養としてのBL入門
特集:教養としてのBL入門
2025年12月23日号(12/16発売)

実写ドラマのヒットで高まるBL(ボーイズラブ)人気。長きにわたるその歴史と深い背景をひもとく

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「食べ方の新方式」老化を防ぐなら、食前にキャベツよりコンビニで買えるコレ
  • 2
    【過労ルポ】70代の警備員も「日本の日常」...賃金低く、健康不安もあるのに働く高齢者たち
  • 3
    待望の『アバター』3作目は良作?駄作?...人気シリーズが直面した「思いがけない批判」とは?
  • 4
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出…
  • 5
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦…
  • 6
    米空軍、嘉手納基地からロシア極東と朝鮮半島に特殊…
  • 7
    懲役10年も覚悟?「中国BL」の裏にある「検閲との戦…
  • 8
    週に一度のブリッジで腰痛を回避できる...椎間板を蘇…
  • 9
    【銘柄】資生堂が巨額赤字に転落...その要因と今後の…
  • 10
    【実話】学校の管理教育を批判し、生徒のため校則を…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 3
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入ともに拡大する「持続可能な」貿易促進へ
  • 4
    【実話】学校の管理教育を批判し、生徒のため校則を…
  • 5
    「最低だ」「ひど過ぎる」...マクドナルドが公開した…
  • 6
    ミトコンドリア刷新で細胞が若返る可能性...老化関連…
  • 7
    自国で好き勝手していた「元独裁者」の哀れすぎる末…
  • 8
    「食べ方の新方式」老化を防ぐなら、食前にキャベツ…
  • 9
    空中でバラバラに...ロシア軍の大型輸送機「An-22」…
  • 10
    身に覚えのない妊娠? 10代の少女、みるみる膨らむお…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 3
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした「信じられない」光景、海外で大きな話題に
  • 4
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 5
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 6
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入と…
  • 7
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで…
  • 8
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出…
  • 9
    健康長寿の鍵は「慢性炎症」にある...「免疫の掃除」…
  • 10
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story