コラム

安倍首相のめざす人為的スタグフレーション

2013年02月13日(水)11時34分

 安倍首相は12日、経済3団体のトップと首相官邸で会談し、「業績の改善を働く人の所得増大の動きにつなげていくことができるかどうかで本格的なデフレ脱却に向かっていく」と賃上げを要請し、財界からも春闘で賃上げに応じる意向が示されたという。こうした政府の働きかけを受け、ローソンは社員の年収を3%引き上げると発表したが、もしすべての企業が要請に応じて3%賃上げしたら何が起こるか、シミュレーションしてみよう。

 賃金コストは価格の半分を占めるので、物価は1.5%ぐらい上がるだろう。3%賃上げしてもらった正社員の実質賃金(名目賃金-インフレ率)は1.5%増になるが、これによって労働需要が減るので失業が増える。つまり政府の要請に従って賃上げすると、物価と同時に失業率が上がるスタグフレーションが起こるのだ。

 また労働者の8割を占める未組織労働者の名目賃金は上がらないので、インフレで実質賃金は1.5%下がる。雇用の減少も正社員の解雇ではなく新規採用の抑制という形で出てくるので、非正社員の雇い止めが増えるだろう。つまり結果としては、豊かな大企業の労働者がますます豊かになり、貧しいパート・アルバイトなどはますます貧しくなるのだ。

 このように政府が価格統制を行うことを「所得政策」と呼び、70年代の石油危機のとき、英米などで発動されたが失敗に終わった。これは激しいインフレを抑えるための政策だったが、今度は政府が価格統制でインフレを作り出そうとする逆所得政策である。本気でやったら世界の笑いものだが、幸い何も起こらないだろう。何の法的拘束力もない「要請」に従って賃上げするお人好しの会社なんかない。

 深刻なのは、安倍氏が激しく日銀に迫っているインフレ目標の意味をまったく理解していないことだ。彼は「日銀法を改正して雇用の最大化を義務づけたい」とも言っているが、彼の脳内では次の現象はどういう論理的関係になっているのだろうか。

 1.インフレ
 2.賃上げ
 3.雇用拡大

 ゆるやかなインフレは景気を改善する効果があるが、それは実質賃金を下げることで企業収益が改善するからで、1と2は相容れない。賃上げして雇用が増えることもありえないから、2と3も相容れない。インフレで雇用が拡大するのは名目賃金が変わらないときだけだから、賃上げしたら1と3も両立しない。彼の話は矛盾だらけなのだ。

 おそらく安倍氏は「インフレになったら何となく景気がよくなって賃金も上がり、雇用も増える」と考えているのだろうが、それは因果関係が逆だ。景気がよくなったらインフレも賃上げも起こるが、インフレだけ起こっても景気はよくならない。正社員の雇用は守られるが、非正社員との格差は拡大するだろう。

 安倍氏は参院選を意識して徹底的な安全運転で、財界の求めるTPP(環太平洋連携協定)への参加や雇用規制の緩和などの危ないテーマには「政府が打つべき政策も鋭意とりくんでいきたい」と述べるだけで、具体的な答は避けた。バラマキ財政と金融緩和と賃上げで甘い話だけして、参院選を乗り切ろうという戦略だろう。

 今のところもくろみ通り円安になり、株価も上がり、内閣支持率も上がって順風満帆だが、企業収益は上がっていない。この「安倍バブル」は、選挙までは続くだろうが、実態のない株価上昇はそのうち終わり、「日本売り」が進むと1ドル=120円ぐらいまで行くかもしれない。

 そうするとドル建ての原油輸入額は10兆円近く上がり、GDP(国内総生産)は2%ぐらい吹っ飛ぶ。これによって輸入インフレが起こると賃上げ要求が激化し、それがさらにインフレをもたらす・・・という悪循環が始まる。これが70年代に先進国が経験したスタグフレーションである。日本は幸いそれを経験しなかったが、安倍氏のおかげでこれから経験するかもしれない。

プロフィール

池田信夫

経済学者。1953年、京都府生まれ。東京大学経済学部を卒業後、NHK入社。93年に退職後、国際大学GLOCOM教授、経済産業研究所上席研究員などを経て、現在は株式会社アゴラ研究所所長。学術博士(慶應義塾大学)。著書に『アベノミクスの幻想』、『「空気」の構造』、共著に『なぜ世界は不況に陥ったのか』など。池田信夫blogのほか、言論サイトアゴラを主宰。

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