コラム

ワリエワのドーピング問題をめぐる2つの判断ミスと3つの謎

2022年03月01日(火)11時30分

このように輝かしい経歴を持つワリエワ選手がドーピング違反の疑いをかけられた場合、真実はどうであれ、釈明するならば上記の①、つまり「自分は何も知らない。ライバルが自分を陥れようとして、飲ませたのだ」と無辜(むこ)を主張するのが最善の方法です。けれど、ワリエワ選手の母親と弁護士はロシア反ドーピング機関などの聞き取りに対して「心臓の薬を服用する祖父と同じグラスでワリエワ選手が飲んだからだ」と説明しました。これが第1の謎です。家族がドーピングの事実を前もって知っていた、あるいは、スケート関係者は無関係と発言するよう指示された、と考えたくなります。

ワリエワ選手の検体からはその後、禁止薬物ではないもののトリメタジジンと組み合わせるとさらに持久力や心肺機能が向上すると考えられている「ハイポキセン」と「L―カルニチン」も検出されました。

コーチ関与説は非現実的?

第2の謎は、トゥトベリーゼコーチにドーピング問題の批判が集まっていることです。②や③のケースで、コーチから服用するように指示されたと考える人が多いのでしょう。

トゥトベリーゼコーチは女子選手の育成に定評があり、ワリエワ選手以外にもソチ五輪団体金のリプニツカヤ選手、平昌五輪女子で金銀のザギトワ選手とメドベージュワ選手、北京五輪女子で金銀のシェルバコワ選手とトルソワ選手などが教え子です。

選手を「原料」と呼び、プライベートまで徹底して管理し、要求に応えられない時は容赦なく罵倒する鬼コーチとして知られています。けれど、結果にシビアな鬼コーチが、選手に対してドーピングを行うかは別の話です。

禁止薬物は、検査すれば必ず使用がわかるからこそ禁止対象になっています。コーチやロシアのスケート連盟は「試合でパフォーマンス向上のためにトリメタジジンを使っても、検査機関に検出されて失格になる」ことを充分に知っているはずです。

北京五輪では、ロシアのフィギュア女子代表選手3人はすべてトゥトベリーゼコーチの教え子で、この3選手が表彰台を独占すると予想されていました。もし、ワリエワ選手が持久力に問題があるとしても他の教え子がメダル候補なので、コーチの栄誉のためにワリエワ選手に無理をさせる必要はありませんでした。

とは言っても、禁止薬物を使う恩恵は練習時こそ発揮されるという見解もあります。トリメタジジンを投与すれば通常よりも長時間の練習ができて、高難度ジャンプの習得や演技の完成度を上げるのに有利になる可能性がある。ドーピング検査のあるロシア選手権で陽性となったのは、ワリエワ選手から薬が抜ける時間を計算する時にコーチ陣がミスをしたのではないか、という疑惑です。

トゥトベリーゼコーチは2020年の国際スケート連盟(ISU)最優秀コーチ賞の受賞者です。しかも、娘はアイスダンスの選手で、ROC代表として北京五輪にも出場しています。禁止薬物の使用が発覚すれば、デメリットは自分の信用失墜や資格停止処分だけでなく、米国を拠点にしている娘にまで及びかねません。それでもコーチは禁止薬物の投与をするのでしょうか。

プロフィール

茜 灯里

作家・科学ジャーナリスト。青山学院大学客員准教授。博士(理学)・獣医師。東京大学理学部地球惑星物理学科、同農学部獣医学専修卒業、東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻博士課程修了。朝日新聞記者、大学教員などを経て第24回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞。小説に『馬疫』(2021 年、光文社)、ノンフィクションに『地球にじいろ図鑑』(2023年、化学同人)、ニューズウィーク日本版ウェブの本連載をまとめた『ビジネス教養としての最新科学トピックス』(2023年、集英社インターナショナル)がある。分担執筆に『ニュートリノ』(2003 年、東京大学出版会)、『科学ジャーナリストの手法』(2007 年、化学同人)、『AIとSF2』(2024年、早川書房)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

GMメキシコ工場で生産を数週間停止、人気のピックア

ビジネス

米財政収支、6月は270億ドルの黒字 関税収入は過

ワールド

ロシア外相が北朝鮮訪問、13日に外相会談

ビジネス

アングル:スイスの高級腕時計店も苦境、トランプ関税
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:大森元貴「言葉の力」
特集:大森元貴「言葉の力」
2025年7月15日号(7/ 8発売)

時代を映すアーティスト・大森元貴の「言葉の力」の源泉にロングインタビューで迫る

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「ベンチプレス信者は損している」...プッシュアップを極めれば、筋トレは「ほぼ完成」する
  • 2
    完璧な「節約ディズニーランド」...3歳の娘の夢を「裏庭」で叶えた両親、「圧巻の出来栄え」にSNSでは称賛の声
  • 3
    シャーロット王女の「ロイヤル・ボス」ぶりが話題に...「曾祖母エリザベス女王の生き写し」
  • 4
    アメリカを「好きな国・嫌いな国」ランキング...日本…
  • 5
    「弟ができた!」ゴールデンレトリバーの初対面に、…
  • 6
    主人公の女性サムライをKōki,が熱演!ハリウッド映画…
  • 7
    セーターから自動車まで「すべての業界」に影響? 日…
  • 8
    トランプはプーチンを見限った?――ウクライナに一転パ…
  • 9
    「お腹が空いていたんだね...」 野良の子ネコの「首…
  • 10
    『イカゲーム』の次はコレ...「デスゲーム」好き必見…
  • 1
    「弟ができた!」ゴールデンレトリバーの初対面に、ネットが感動の渦
  • 2
    日本企業の「夢の電池」技術を中国スパイが流出...APB「乗っ取り」騒動、日本に欠けていたものは?
  • 3
    シャーロット王女の「ロイヤル・ボス」ぶりが話題に...「曾祖母エリザベス女王の生き写し」
  • 4
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 5
    「ベンチプレス信者は損している」...プッシュアップ…
  • 6
    「本物の強さは、股関節と脚に宿る」...伝説の「元囚…
  • 7
    「飛行機内が臭い...」 原因はまさかの「座席の下」…
  • 8
    アリ駆除用の「毒餌」に、アリが意外な方法で「反抗…
  • 9
    為末大×TAKUMI──2人のプロが語る「スポーツとお金」 …
  • 10
    孫正義「最後の賭け」──5000億ドルAI投資に託す復活…
  • 1
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 2
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 3
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事故...「緊迫の救護シーン」を警官が記録
  • 4
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 5
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 6
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
  • 7
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 8
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 9
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
  • 10
    「うちの赤ちゃんは一人じゃない」母親がカメラ越し…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story