コラム

黒人のアイデンティティーを隠し、有名な「モルガン・ライブラリー」設立の陰の立役者になった実在の女性司書

2021年10月13日(水)19時30分

もともとはJ.P.モルガンの私的なライブラリーだったニューヨークの「モルガン・ライブラリー」 Jeff Zelevansky-REUTERS

<J.P.モルガンの私的な司書として「モルガン・ライブラリー」を拡充させた、類まれなる黒人女性を描いた物語だが......>

J.P.モルガンはアメリカの5大財閥のひとつであるモルガン財閥の創始者として知られている。また、ニューヨークのマンハッタンにある有名なモルガン・ライブラリーは、もとはJ.P.モルガンの個人コレクションを集めた私的なライブラリーであった。J.P.モルガンの個人的なコレクションを彼のビジョンに沿って拡張して管理する司書として雇われたのがベラ・ダ・コスタ・グリーンだった。

ベラの母はワシントンDCで有名なアフリカ系アメリカ人一家の出身であり、高等教育を受けて音楽教師をしていた。そして、父のリチャード・セオドラ・グリーナーは、黒人として初めてのハーバード大学卒業者(1870年卒)であり、弁護士、大学教授、社会活動家として名前が知られていた。けれども、両親が別居してからは母と子どもたちはそれぞれにミドルネームと名字を変え、肌の色が白かった彼らはニューヨークで白人として暮らすようになっていた。19世紀後半から20世紀初頭のアメリカでは、北部のニューヨークであっても黒人のアイデンティティでは安全な場所で住居を借りることも、給与が良い職も得ることもできなかったからだ。

大学には行っていないが父から直接教育を受けたベラには学歴がある研究者と同等かそれ以上の知識と知識欲があり、それを活かしてプリンストン大学で司書として働いていた。その職で得たコネクションで、ベラはJ.P.モルガンの個人的な司書として雇用された。

黒人であることを隠したベラの葛藤

アメリカで女性が投票の権利を得たのは1920年だ。ベラがJ.P.モルガンの司書として雇用された1905年には、人種差別だけでなく、女性差別も今より激しかった。そんな時代に、ベラはアメリカで最も気難しい大富豪のひとりとして有名だったJ.P.モルガンから全面的に信頼されるようになっただけでなく、キュレーターとして全世界の古書や美術品の収集家、美術評論家、美術館から一目を置かれるパワフルな存在になったのである。そして、J.P.モルガンの死後には、個人コレクションだったライブラリーを一般人もアクセスできる公的な図書館にするよう後継者の息子ジャックを説得した。

今年6月に発売された小説『The Personal Librarian』は、現在私たちが自由に訪問できるモルガン・ライブラリーの陰の立役者だった、このベラ・ダ・コスタ・グリーンを描いた歴史小説である。

筆者マリー・ベネディクトは、これまでにも多く実在の人物を小説化している。彼女がベラについて書きたいと思ったのは、ずいぶん前のことだという。けれども、白人である自分がベラの心情を語るのは適切ではないと感じて黒人女性作家のビクトリア・クリストファー・マーレイに共著を依頼した。

これらの共著者は、類まれなるベラをどう描いたのだろうか?

この小説では、黒人のアイデンティティーを隠して白人として生きることを強いられたベラの葛藤や、生まれてきた子どもの肌が黒くてアイデンティティーが暴露されてしまうことを恐れて結婚できなかったことなどが繰り返し説明されている。アメリカの法律では、一滴でも黒人の血が混じっていたら黒人とみなされ、白人に開いている就職の道をすべて閉ざされてしまう。家族の生活を支える大黒柱だったベラにとって、白人のアイデンティティーを守ることは、自分だけでなく家族のためでもあったことも描かれている。

プロフィール

渡辺由佳里

Yukari Watanabe <Twitter Address https://twitter.com/YukariWatanabe
アメリカ・ボストン在住のエッセイスト、翻訳家。兵庫県生まれ。外資系企業勤務などを経て95年にアメリカに移住。2001年に小説『ノーティアーズ』(新潮社)で小説新潮長篇新人賞受賞。近著に『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』(亜紀書房)、『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)などがある。翻訳には、レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店)、『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経BP社、日経ビジネス人文庫)、マリア・V スナイダー『毒見師イレーナ』(ハーパーコリンズ)がある。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

英、中東に戦闘機を移動 地域の安全保障支援へ=スタ

ワールド

イスラエル、イランガス田にも攻撃 応酬続く 米・イ

ワールド

米首都で34年ぶり軍事パレード、トランプ氏誕生日 

ワールド

米ミネソタで州議員が銃撃受け死亡、容疑者逃走中 知
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:非婚化する世界
特集:非婚化する世界
2025年6月17日号(6/10発売)

非婚化・少子化の波がアメリカもヨーロッパも襲う。世界の経済や社会福祉、医療はどうなる?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高にかっこいい」とネット絶賛 どんなヘアスタイルに?
  • 2
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波でパニック...中国の輸出規制が直撃する「グローバル自動車産業」
  • 3
    右肩の痛みが告げた「ステージ4」からの生還...「生きる力」が生んだ「現代医学の奇跡」とは?
  • 4
    林原めぐみのブログが「排外主義」と言われてしまう…
  • 5
    サイコパスの顔ほど「魅力的に見える」?...騙されず…
  • 6
    構想40年「コッポラの暴走」と話題沸騰...映画『メガ…
  • 7
    逃げて!背後に写り込む「捕食者の目」...可愛いウサ…
  • 8
    「結婚は人生の終着点」...欧米にも広がる非婚化の波…
  • 9
    4年間SNSをやめて気づいた「心を失う人」と「回復で…
  • 10
    メーガン妃の「下品なダンス」炎上で「王室イメージ…
  • 1
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の瞬間...「信じられない行動」にネット驚愕
  • 2
    大阪万博は特に外国人の評判が最悪...「デジタル化未満」の残念ジャパンの見本市だ
  • 3
    「セレブのショーはもう終わり」...環境活動家グレタらが乗ったガザ支援船をイスラエルが拿捕
  • 4
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 5
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波で…
  • 6
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高に…
  • 7
    ふわふわの「白カビ」に覆われたイチゴを食べても、…
  • 8
    脳も体も若返る! 医師が教える「老後を元気に生きる…
  • 9
    ファスティングをすると、なぜ空腹を感じなくなるの…
  • 10
    アメリカは革命前夜の臨界状態、余剰になった高学歴…
  • 1
    【定年後の仕事】65歳以上の平均年収ランキング、ワースト2位は清掃員、ではワースト1位は?
  • 2
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 3
    日本はもう「ゼロパンダ」でいいんじゃない? 和歌山、上野...中国返還のその先
  • 4
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊…
  • 5
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 6
    大爆発で一瞬にして建物が粉々に...ウクライナ軍「Mi…
  • 7
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 8
    あなたも当てはまる? 顔に表れるサイコパス・ナルシ…
  • 9
    ドローン百機を一度に発射できる中国の世界初「ドロ…
  • 10
    【クイズ】EVの電池にも使われる「コバルト」...世界…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story