コラム

オピオイド依存症の深刻な社会問題を引き起こした、サックラー一族の壮大な物語

2021年07月20日(火)18時30分

サックラー家が何から収入を得ているかはほとんど知られていなかった(写真はパーデュー・ファーマ製のオキシコンチン) George Frey-REUTERS

<芸術や文化に多額の寄付をするフィランソロピストとして知られていた大富豪ファミリーの知られざる収入源>

『ヒルビリー・エレジー』などの本にも出てくるが、アメリカでのオピオイド依存症は非常に深刻な社会問題になっている。アメリカ政府の機関NIDA(米国立薬物乱用研究所)によると、2019年だけで約5万人もの人がオピオイドに関連したオーバードーズで死亡している。オピオイドの乱用によるヘルスケアコスト、生産ロス、依存症治療、犯罪などの経済的ダメージも年間785億ドル(約8兆円)になるという。

その深刻な問題を作り出した犯人として名前が知られるようになったのが、米製薬企業パーデュー・ファーマとそのオーナーであるサックラー・ファミリーである。『Empire of Pain』は、このサックラー・ファミリーに焦点を絞ってアメリカのオピオイド問題の歴史を説明するノンフィクションである。

オピオイドで有名なのは天然のモルヒネだ。これに依存症があることは長く知られ、医療の場で慎重に取り扱われてきた。半合成のオキシコドンやヘロインも警戒されてきたが、それを変えたのがパーデュー・ファーマのOxyContin(商品名オキシコンチン)である。特殊な製造方法によりオピオイドのリリースを緩やかにしているので依存性がないというのが売りであった。

アグレッシブな宣伝、売り込み

パーデューは「医師という専門家の推薦であれば信頼できる」という心理を利用し、ときには架空の医師を使って創作に近い医療情報を現場の医師に提供した。それは、オキシコンチンは「がんなどの末期だけでなく、多くの痛みに使える」「依存性がほとんどないので、長期にわたって使える」という根拠がない医療情報だった。パーデューの営業は車のセールスマンのように売れば売るほど報奨を与えられる。ゆえに、アグレッシブな宣伝や売り込みを行っていった。

現場では早期から依存症やオーバードーズの深刻な問題が報告されていた。それを誰よりも早く知っていたパーデューは、長期にわたって「薬が悪いのではない。乱用する者が悪い」と言い続けてきた。利益が高いオピオイド販売に依存する会社の姿勢を変え、新しい薬を開発する方向を求める意見は内部にもあったが、そういう意見をする者はオーナーであるサックラー家への忠誠心に欠けるとして排除された。

興味深いのは、アメリカ、イギリス、フランスなどで芸術や文化へに多額の寄付をするフィランソロピストとして知られていた大富豪のサックラー・ファミリーなのに、そのお金がどこから来たのか知る人がほとんどいなかったということだ。ファミリービジネスとしてスタートしたのだから、通常なら一族の名前を使うはずだ。だが、サックラーはわざとそうしなかった。本書は、その理由を含めてサックラー・ファミリーがどのようにしてこのビジネスを始め、どう育てたのか、その歴史についても語っている。

東欧からのユダヤ系移民の両親のもとに生まれたアーサー、モーティマー、レイモンドの三兄弟は、長男のアーサーの選んだ道に従って全員が精神科医になった。特にアーサーには起業精神もあり、医師として働きながらも、広告代理店のWilliam Douglas McAdams Agencyで医療分野の担当者として画期的な戦略を立てた。当時ロシュが製造していたValium(ジアゼパムの製品名)を全米に流行らせた貢献者は、実はアーサー・サックラーだった。製薬会社が医師の研究に出費したり、食事を提供したり、ゴルフトーナメントを行ったり、病院担当者がパンフを持って訪問したりする現在よく知られているビジネスモデルを生み出したのもアーサーだったというのには驚いた。

プロフィール

渡辺由佳里

Yukari Watanabe <Twitter Address https://twitter.com/YukariWatanabe
アメリカ・ボストン在住のエッセイスト、翻訳家。兵庫県生まれ。外資系企業勤務などを経て95年にアメリカに移住。2001年に小説『ノーティアーズ』(新潮社)で小説新潮長篇新人賞受賞。近著に『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』(亜紀書房)、『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)などがある。翻訳には、レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店)、『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経BP社、日経ビジネス人文庫)、マリア・V スナイダー『毒見師イレーナ』(ハーパーコリンズ)がある。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏の昨年資産報告書、暗号資産などで6億ドル

ワールド

イラン、イスラエルとの停戦交渉拒否 仲介国に表明=

ワールド

G7、中東情勢が最重要議題に 緊張緩和求める共同声

ワールド

トランプ氏、イスラエルのハメネイ師殺害計画を却下=
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:非婚化する世界
特集:非婚化する世界
2025年6月17日号(6/10発売)

非婚化・少子化の波がアメリカもヨーロッパも襲う。世界の経済や社会福祉、医療はどうなる?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「タンパク質」より「食物繊維」がなぜ重要なのか?...「がん」「栄養」との関係性を管理栄養士が語る
  • 2
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高にかっこいい」とネット絶賛 どんなヘアスタイルに?
  • 3
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波でパニック...中国の輸出規制が直撃する「グローバル自動車産業」
  • 4
    サイコパスの顔ほど「魅力的に見える」?...騙されず…
  • 5
    林原めぐみのブログが「排外主義」と言われてしまう…
  • 6
    メーガン妃とキャサリン妃は「2人で泣き崩れていた」…
  • 7
    若者に大不評の「あの絵文字」...30代以上にはお馴染…
  • 8
    さらばグレタよ...ガザ支援船の活動家、ガザに辿り着…
  • 9
    ハルキウに「ドローン」「ミサイル」「爆弾」の一斉…
  • 10
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 1
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の瞬間...「信じられない行動」にネット驚愕
  • 2
    大阪万博は特に外国人の評判が最悪...「デジタル化未満」の残念ジャパンの見本市だ
  • 3
    「セレブのショーはもう終わり」...環境活動家グレタらが乗ったガザ支援船をイスラエルが拿捕
  • 4
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波で…
  • 5
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高に…
  • 6
    ファスティングをすると、なぜ空腹を感じなくなるの…
  • 7
    今こそ「古典的な」ディズニープリンセスに戻るべき…
  • 8
    アメリカは革命前夜の臨界状態、余剰になった高学歴…
  • 9
    右肩の痛みが告げた「ステージ4」からの生還...「生…
  • 10
    脳も体も若返る! 医師が教える「老後を元気に生きる…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    【定年後の仕事】65歳以上の平均年収ランキング、ワースト2位は清掃員、ではワースト1位は?
  • 3
    日本はもう「ゼロパンダ」でいいんじゃない? 和歌山、上野...中国返還のその先
  • 4
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊…
  • 5
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 6
    大爆発で一瞬にして建物が粉々に...ウクライナ軍「Mi…
  • 7
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 8
    あなたも当てはまる? 顔に表れるサイコパス・ナルシ…
  • 9
    ドローン百機を一度に発射できる中国の世界初「ドロ…
  • 10
    【クイズ】EVの電池にも使われる「コバルト」...世界…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story