最新記事

中国

土着の記憶を魂に響くリズムで

2015年6月17日(水)15時50分
張 競(明治大学教授)※アステイオン82より転載

 三つ目の理由として、詩の形態を通して、社会的格差という問題を情緒的に経験させたことが挙げられる。余秀華の作品の中でもっとも人気が高く、もっとも多く語られているのは「中国の大半を通り抜けてあなたを寝に行く」(下線は引用者)という詩である。

 (前略)
 私は弾丸雨飛の中をくぐってあなたを寝に行く
 私は無数の暗夜を一つの黎明に押し込んであなたを寝に行く
 無数の私が疾走し一人の私になってあなたを寝に行く

 むろん私も何匹かの蝶々に惑わされ岐路に迷いこんだことがある
 いくつかの讃美を春だと勘違いし
 横店と似た村を故郷と思ったことがある

 しかしそれらは
 すべて私があなたを寝に行く理由である

 十四行からなる詩の後半だが、この作品を読んで多くの読者は反射的に「民工」(出稼ぎ労働者)たちのことを思い出すであろう。出稼ぎ労働者たちは一家を養うために農村を離れ、はるばる異郷に働きに行く。通常、彼らは年に一回しか里帰りすることはできない。この詩では、帰省は家族団らんのためではない。千キロ単位の空間移動は性愛の一点に収斂されている。語り手は単刀直入に「あなたを寝に行く」という。率直というより、野卑な表現である。しかし、洗練さの欠如はここでは身体の困惑と無抵抗な農民たちが晒された精神的な重圧を指し示す隠喩となる。

「あなたを寝に行く」(「去睡你」)という表現は本来、文法的に間違っている。しかし、自動詞の「寝る」が他動詞として使われることで、強烈な情念効果が演出される。統辞法からの逸脱によって、「寝る」という動詞は言葉の壁を突き抜けて、直情の響き合いを起動させる。

 もともと「寝る」ことは農民たちにとって、ごくありふれた生理的な行為に過ぎない。そのような日常は出稼ぎの生活のなかで非日常に転換する。彼ら/彼女らは性愛のなかに避難する権利さえ奪われ、生活権ともいえる「寝る」ことのために、はるばる国土の大半を通り抜けなければならない。「無数の暗夜を一つの黎明に押し込む」ことにも、「無数の私が疾走し一人の私にな(る)」という隠喩にも民工たちのそれぞれの苦悩、それぞれの辛酸が投射されている。

 それにしても、かりに「互聯網」(インターネット)がなかったら、余秀華は如何に才能があっても、歳月の車輪の下に埋もれてしまったであろう。ブログで詩を書き、偶然一人の目利きに見いだされる。匿名の読者たちは熱狂的に転送し、無限連鎖のなかで共感の共同体が形成される。仮想空間だからこそ、著名な「詩人」も無名な農民も違いはなくなってしまう。表現の自由は一%の空間さえあれば、その隙間から雑草が芽を出し、たくましく成長することができる。

 余秀華ブームは果たして長続きするのか。そもそも彼女はこれからも世間を驚かせる詩を書き続けることができるのか。しばらくは目が離せない。

[執筆者]
張 競(明治大学教授)
1953年上海生まれ。華東師範大学卒業、同大学助手を経て1985年に来日。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。近著に『海を越える日本文学』(筑摩書房)、『異文化理解の落とし穴』(岩波書店)、『張競の日本文学診断』(五柳書院)など。

※当記事は「アステイオン82」からの転載記事です

asteion_logo.jpg




asteion_082.jpg『アステイオン82』
特集「世界言語としての英語」

公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

アングル:中国株に戻り始めた国内投資家、外国勢は慎

ワールド

ニューカレドニア、混乱続く マクロン仏大統領が23

ビジネス

英財政赤字、4月は予想上回る 対GDP比で60年代

ビジネス

日鉄のUSスチール買収、米大統領選後に「粛々と協議
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:スマホ・アプリ健康術
特集:スマホ・アプリ健康術
2024年5月28日号(5/21発売)

健康長寿のカギはスマホとスマートウォッチにあり。アプリで食事・運動・体調を管理する方法

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    半裸でハマスに連れ去られた女性は骸骨で発見された──イスラエル人人質

  • 2

    娘が「バイクで連れ去られる」動画を見て、父親は気を失った...家族が語ったハマスによる「拉致」被害

  • 3

    「目を閉じれば雨の音...」テントにたかる「害虫」の大群、キャンパーが撮影した「トラウマ映像」にネット戦慄

  • 4

    9年前と今で何も変わらない...ゼンデイヤの「卒アル…

  • 5

    ベトナム「植民地解放」70年を鮮やかな民族衣装で祝…

  • 6

    高速鉄道熱に沸くアメリカ、先行する中国を追う──新…

  • 7

    服着てる? ブルックス・ネイダーの「ほぼ丸見え」ネ…

  • 8

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 9

    能登群発地震、発生トリガーは大雪? 米MITが解析結…

  • 10

    「韓国は詐欺大国」の事情とは

  • 1

    半裸でハマスに連れ去られた女性は骸骨で発見された──イスラエル人人質

  • 2

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 3

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 4

    娘が「バイクで連れ去られる」動画を見て、父親は気…

  • 5

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 6

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバ…

  • 7

    「隣のあの子」が「未来の王妃」へ...キャサリン妃の…

  • 8

    SNSで動画が大ヒットした「雨の中でバレエを踊るナイ…

  • 9

    米誌映画担当、今年一番気に入った映画のシーンは『…

  • 10

    「まるでロイヤルツアー」...メーガン妃とヘンリー王…

  • 1

    半裸でハマスに連れ去られた女性は骸骨で発見された──イスラエル人人質

  • 2

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 3

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 4

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々…

  • 5

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 6

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 7

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 8

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 9

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 10

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中