最新記事
映画

米誌映画担当、今年一番気に入った映画のシーンは『悪は存在しない』のあの20分間

Power of Public Forums

2024年5月19日(日)17時35分
サム・アダムズ(スレート誌映画担当)
『悪は存在しない』

『悪は存在しない』で父親の巧と2人で暮らす花は、友達と遊ぶより、木々や生き物たちに見守られて森の中を歩き回るほうが好きだ ©2023 NEOPA/FICTIVE

<こんなに面白い市民集会はない......。『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介監督の新作『悪は存在しない』は、「普通の人々」の議論を静かなドラマにし、人間の本質を映し出す>

ヘンリック・イプセンの代表作の1つに、『民衆の敵』という戯曲がある。現在ブロードウェイで再上演中で、トニー賞5部門にもノミネートされた。小さな町の医師が、町の財政を支える温泉が製革工場の廃液で汚染されていることを突き止め、地元紙にその事実を掲載しようとする。

しかし、新聞の編集者は、医師の報告によって温泉が閉鎖され、人々が仕事を失い、新聞を買うお金がなくなると気付く。そこで町の有力者と共に市民集会を画策する。人々に単に真実を示すのではなく、真実を「知りたい」かどうか聞いてみようというわけだ。結果は有力者の思惑どおりになる。医師は罵声を浴びせられ、裏切り者の烙印を押され、公の場で攻撃される。

医師を陥れようと画策する人々が、民主主義の重要性を詩的に語る場面がある。社会は船のようなもので、誰もが舵を取るべきだと彼らは主張する。しかし町の外から来た船乗りが、その例えの欠点をこう指摘する。「それでは船はろくに進まない」

理論的には、古代ギリシャでも行われたように市民集会は民主主義の本質だ。だが実際には、よく言っても厄介、悪く言えば非常に不愉快なもの。NIMBY(ニンビー、必要だが迷惑な施設は自宅近くには建てるな)を訴える人や計画中止を求める人々が、自分たちの思いどおりになるまで穏健な意見を罵倒する場といえる。

平穏な町に訪れた危機

時には、特にフィクションの世界では、事実を味方に付けた理性的な1人の意見が皆を圧倒することもある。しかし多くの場合、その1人の声は、怒った町民たちに罵られて床の上で震える善良な医師と同じような結末を迎える。

かくいう筆者もこの数カ月にこうした集会に何度か出席し、不快な思いをしたりあきれ返ったりした。そんな私が今年一番気に入った映画のシーンは、心配顔の住民たちとパワーポイントのプレゼン、ずらりと並ぶ折り畳み椅子の場面であることに、自分でも驚く。

『ドライブ・マイ・カー』でアカデミー賞国際長編映画賞を受賞した濱口竜介監督の新作『悪は存在しない』の一場面だ。

舞台は水挽町(みずびきちょう)という小さな町。近くの森にグランピング場を建設する計画が持ち上がり、町の平穏が崩壊の危機に直面する。グランピング事業に乗り出した東京の芸能事務所プレイモードの社員が、町民に初めて計画書を示す住民説明会で問題が明らかになる。

それから20分間、ほぼ途切れることなく、町民と企業側が浄化槽からの汚水の流出という細かなことについてひたすら意見を交わす。それが圧倒的に面白いのだ。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

米肥満薬開発メッツェラ、ファイザーの100億ドル買

ワールド

米最高裁、「フードスタンプ」全額支給命令を一時差し

ワールド

アングル:国連気候会議30年、地球温暖化対策は道半

ワールド

ポートランド州兵派遣は違法、米連邦地裁が判断 政権
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:高市早苗研究
特集:高市早苗研究
2025年11月 4日/2025年11月11日号(10/28発売)

課題だらけの日本の政治・経済・外交を初の女性首相はこう変える

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 2
    「座席に体が収まらない...」飛行機で嘆く「身長216cmの男性」、前の席の女性が取った「まさかの行動」に称賛の声
  • 3
    『プレデター: バッドランド』は良作?駄作?...批評家たちのレビューは「一方に傾いている」
  • 4
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 5
    筋肉を鍛えるのは「食事法」ではなく「規則」だった.…
  • 6
    「路上でセクハラ」...メキシコ・シェインバウム大統…
  • 7
    クマと遭遇したら何をすべきか――北海道80年の記録が…
  • 8
    【銘柄】元・東芝のキオクシアHD...生成AIで急上昇し…
  • 9
    なぜユダヤ系住民の約半数まで、マムダニ氏を支持し…
  • 10
    「非人間的な人形」...数十回の整形手術を公表し、「…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎の存在」がSNSで話題に、その正体とは?
  • 3
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 4
    9歳女児が行方不明...失踪直前、防犯カメラに映った…
  • 5
    「日本のあの観光地」が世界2位...エクスペディア「…
  • 6
    「遺体は原型をとどめていなかった」 韓国に憧れた2…
  • 7
    虹に「極限まで近づく」とどう見える?...小型機パイ…
  • 8
    「路上でセクハラ」...メキシコ・シェインバウム大統…
  • 9
    「座席に体が収まらない...」飛行機で嘆く「身長216c…
  • 10
    米沿岸に頻出する「海中UFO」──物理法則で説明がつか…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    英国で「パブ離れ」が深刻化、閉店ペースが加速...苦肉の策は「日本では当たり前」の方式だった
  • 3
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」はどこ?
  • 4
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 5
    1000人以上の女性と関係...英アンドルー王子、「称号…
  • 6
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 7
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 8
    【クイズ】日本でツキノワグマの出没件数が「最も多…
  • 9
    お腹の脂肪を減らす「8つのヒント」とは?...食事以…
  • 10
    悲しみで8年間「羽をむしり続けた」オウム...新たな…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中