コラム

南シナ海問題、中国の「まがいもの」法廷という思考法を分析する

2016年07月27日(水)16時40分

 要するに、あくまでも今回の裁決は、国連の系統には属さず、臨時に設けられた仲裁裁判所の判決であり、そもそも重視すべきものではない、という論法を取ったのである。中国の報道では、裁決のことを「臨時の仲裁裁判所が行った」と、ことごとく表記している。どの報道をみてもほとんど統一されているので、これは報道管制というか、「臨時」を強調するよう、上からの用語使用の指示があったに違いない。

 しかし、客観的に見れば、この臨時の裁判所は、中国も加盟する国連海洋法条約に基づいて設置された国際海洋法裁判所が設けたものなので、決してそれが「まがいもの」であるとは言うことはできない。そして、国連海洋法条約上、強制執行手段はないものの、加盟国に対する法的な拘束力も持っている。

 日本や海外のメディアでは今回の裁決がPCAのものであると書いていたところが多かったが、実際はそうではなかったのは確かである。ただ、その内容はPCAの公式ホームページに載っており、間接的にはPCAも関わっている。

 また、中国は仲裁裁判所が「金を払えば作られるもので、フィリピンが金を出した」という批判も行った。しかし、仲裁裁判に応じていれば中国も資金を出さなくてはならなかった。中国は金を出さなかったかわりに仲裁裁判を欠席する作戦を取ったのであり、フィリピンが金を出したことをもって信用性を疑問視するのは、論理のすり替えと言っていいだろう。

中国のSNSには批判的な見方も

 そもそも仲裁裁判とは、相手の同意がなくても行えるものであり、仲裁裁判所によってフィリピンの訴えについて管轄権があると判断された時点で、中国は土俵に乗るべきだったのではないだろうか。

 中国内では、今回の判決に対して、ソーシャルメディアのなかでも全文公開される微博(ウェイボー)ではなく、微信(ウイチャット)など友人の間だけでやり取りし外部に出ないことが前提のプラットフォームでは、裁判に一切協力しない戦略を取った中国政府のやり方を批判している声が少なくない。「裁判で徹底的に闘っていれば、ここまで完全敗北を喫することはなかった」という意見も多く、中国政府の戦略ミスではないか、という疑念は知識人には共有されている。なおさらこうした政府批判を抑え込む意味でも、「判決そのもの」の信用性を揺さぶる戦略を選んだのかもしれない。

 国際海洋法裁判所の現任裁判官であり、フィリピン提訴時の裁判所長だった柳井俊二氏が日本人であり、第一次安倍政権が設置した集団的自衛権に関する憲法解釈の見直しを検討する私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」の座長であったことを理由に、日米が共謀した結果ではなかったかという印象操作的な主張も中国のメディアでは散見された。

プロフィール

野嶋 剛

ジャーナリスト、大東文化大学教授
1968年、福岡県生まれ。上智大学新聞学科卒。朝日新聞に入社し、2001年からシンガポール支局長。その間、アフガン・イラク戦争の従軍取材を経験する。政治部、台北支局長(2007-2010)、国際編集部次長、AERA編集部などを経て、2016年4月に独立。中国、台湾、香港、東南アジアの問題を中心に執筆活動を行っており、著書の多くが中国、台湾でも翻訳出版されている。著書に『イラク戦争従軍記』(朝日新聞社)『ふたつの故宮博物院』(新潮選書)『銀輪の巨人』(東洋経済新報社)『蒋介石を救った帝国軍人 台湾軍事顧問団・白団』(ちくま文庫)『台湾とは何か』『香港とは何か』(ちくま新書)。『なぜ台湾は新型コロナウイルスを防げたのか』(扶桑社新書)など。最新刊は『新中国論 台湾・香港と習近平体制』(平凡社新書)

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