コラム

講談社『中国の歴史』も出版した中国の「良心的出版人」が消えた

2016年06月22日(水)16時28分

「出版社はお金儲けができる仕事ではない。もしも金持ちになりたかったら、ほかの仕事を選んだほうがいい」「給料はもう十分もらっている。あとはいい本さえ出していければいい」が何氏の口癖だったというから、汚職で逮捕されるということに首をかしげる人も多い。

「わけが分からないほど厳しくなっている」

 一方で何氏の逮捕のニュースが広がった前後に、同じ広西チワン族自治区にある新華書店の幹部が収賄で有罪判決を受けたという情報が流れた。この人物は、職務を利用して、ある教育関係の出版社から賄賂を受け取ったという罪状だが、この教育関係の出版社は、何氏のいた広西師範大学出版社の関係会社である。単なる偶然の一致とは思えず、この汚職事件に巻き込まれた可能性は排除できない。何氏が私腹を肥やしたことはなくても、社長として外国からの来客や国内での接待なども含め、活発に活動するだけに費用はかさんだはずで、改革開放以来、長年にわたってグレーゾーンになってきた業界的慣行である出版社への書店からのキックバックなどを、ここにきて当局に掘り起こされた懸念はある。

 気になる情報としては、広西師範大学出版社は、高華というすでに亡くなった中国人学者の遺作である『歴史学的境界』という本を昨年末に出版したが、「内容に問題があった」という理由で出版の中止を命じられ、書店から回収されたというものがある。共産党の歴史に関して、オフィシャルな記述から逸脱した内容があったためという噂も流れた。また、同社は鋭い社会批評を含んだ作風で知られる独立系のドキュメンタリー映画監督、張賛波氏の著書『大路』も今年始めに出版したが、こちらもすぐに出版中止・回収となっている。

【参考記事】中国の拉致をカネ重視で黙認する国際社会

 中国の出版界では、何氏の逮捕とこれらの出版の問題とを結びつける見方もあるが、現時点でそれを裏付ける証拠はない。時系列的にも、汚職の捜査はこの2冊の出版より先に進んでいたはずだ。ここからは筆者の推測だが、長年、出版界の「問題児」でもあった同社の出版姿勢に不満を募らせてきた当局の怒りが、高華らの本の出版によって決壊した形になり、汚職の摘発とあいまって何氏摘発へつながったと見ることもできる。

 確実に言えることは、「良心的出版人」がまた一人、中国の言論・出版界から、わけの分からないまま、こつ然と姿を消してしまった、ということである。中国における出版内容の締め付けは、出版業界の人々の言葉を借りれば「この2年、わけが分からないほど、厳しくなっている。およそ、敏感なテーマを扱った本は、内容のいかんを問わず、ことごとく出せない」ということである。そのなかで「ギリギリ」の線で頑張り続けてきた何氏の存在は大きく、何氏とほぼイコールだった「理想国」ブランドの行方は風前の灯火になると思われる。

プロフィール

野嶋 剛

ジャーナリスト、大東文化大学教授
1968年、福岡県生まれ。上智大学新聞学科卒。朝日新聞に入社し、2001年からシンガポール支局長。その間、アフガン・イラク戦争の従軍取材を経験する。政治部、台北支局長(2007-2010)、国際編集部次長、AERA編集部などを経て、2016年4月に独立。中国、台湾、香港、東南アジアの問題を中心に執筆活動を行っており、著書の多くが中国、台湾でも翻訳出版されている。著書に『イラク戦争従軍記』(朝日新聞社)『ふたつの故宮博物院』(新潮選書)『銀輪の巨人』(東洋経済新報社)『蒋介石を救った帝国軍人 台湾軍事顧問団・白団』(ちくま文庫)『台湾とは何か』『香港とは何か』(ちくま新書)。『なぜ台湾は新型コロナウイルスを防げたのか』(扶桑社新書)など。最新刊は『新中国論 台湾・香港と習近平体制』(平凡社新書)

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、15日の停戦協議参加の可能性示唆 ゼレ

ワールド

メキシコ、USMCA再検討を予定早め今年後半に開始

ワールド

ブラジル大統領が訪中、13日に習氏と首脳会談へ

ビジネス

EU、米英貿易合意の影響を分析=欧州委通商担当
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:2029年 火星の旅
特集:2029年 火星の旅
2025年5月20日号(5/13発売)

トランプが「2029年の火星に到着」を宣言。アメリカが「赤い惑星」に自給自足型の都市を築く日

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    心臓専門医が「絶対に食べない」と断言する「10の食品」とは?...理想は「1825年の食事」
  • 2
    カヤック中の女性がワニに襲われ死亡...現場動画に映った「殺気」
  • 3
    ゴルフ場の近隣住民に「パーキンソン病」多発...原因は農薬と地下水か?【最新研究】
  • 4
    シャーロット王女の「親指グッ」が話題に...弟ルイ王…
  • 5
    母「iPhone買ったの!」→娘が見た「違和感の正体」に…
  • 6
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 7
    「出直し」韓国大統領選で、与党の候補者選びが大分…
  • 8
    「がっかり」「私なら別れる」...マラソン大会で恋人…
  • 9
    ハーネスがお尻に...ジップラインで思い出を残そうと…
  • 10
    ロシア艦船用レーダーシステム「ザスロン」に、ウク…
  • 1
    心臓専門医が「絶対に食べない」と断言する「10の食品」とは?...理想は「1825年の食事」
  • 2
    健康は「何を食べないか」次第...寿命を延ばす「5つの指針」とは?
  • 3
    脂肪は自宅で燃やせる...理学療法士が勧める「3つの運動」とは?
  • 4
    5月の満月が「フラワームーン」と呼ばれる理由とは?
  • 5
    部下に助言した時、返事が「分かりました」なら失敗…
  • 6
    シャーロット王女の「親指グッ」が話題に...弟ルイ王…
  • 7
    ロシア機「Su-30」が一瞬で塵に...海上ドローンで戦…
  • 8
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 9
    ついに発見! シルクロードを結んだ「天空の都市」..…
  • 10
    「2025年7月5日に隕石落下で大災害」は本当にあり得…
  • 1
    心臓専門医が「絶対に食べない」と断言する「10の食品」とは?...理想は「1825年の食事」
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    脂肪は自宅で燃やせる...理学療法士が勧める「3つの…
  • 5
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 6
    健康は「何を食べないか」次第...寿命を延ばす「5つ…
  • 7
    「2025年7月5日に隕石落下で大災害」は本当にあり得…
  • 8
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
  • 9
    【クイズ】世界で2番目に「軍事費」が高い国は?...1…
  • 10
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story