コラム

講談社『中国の歴史』も出版した中国の「良心的出版人」が消えた

2016年06月22日(水)16時28分

REUTERS

<5月、知識人の間で高く評価され、理想を追求する良心派だった広西師範大学出版社の何林夏氏が逮捕された。まだ謎の多い事件だが、なぜ彼は当局に「消された」のか> (写真は本文と関係ありません)

 山水画のような景色で有名な桂林がある中国の広西チワン族自治区といえば、経済発展のレベルからすれば、真ん中よりかなり下のほうにある、というイメージが強い。文化的にはもっと評価は低いかも知れない。そんな広西・桂林に本社を置く「広西師範大学出版社」は、この10数年、「理想国」などのブランドを打ち出してほかの出版社が手を出さない良書や問題作を次々と世に問うことで中国の出版界を席巻し、知識人の間で高い人気と信用を築いてきた。講談社の大著シリーズ『中国の歴史』も翻訳出版し、一昨年に大ヒットさせたことで日本の出版界で話題になった。中国でこれまで3冊本を出している私も、いつか「理想国」で本を出してみたいと内心期待していた。

 ところが、その広西師範大学出版社を引っ張ってきた伝説的な出版人である同社前会長の何林夏氏が、この5月、広西チワン族自治区人民検察に収賄の疑いで逮捕された。中国の出版界に強い衝撃が走ったことは言うまでもない。何氏は、広西師範大学出版社を、桂林にある地方の一出版社から売り上げが全国の大手10位に入るほどの全国ブランドに一手で押し上げた。「理想国」「魔法象」「新民説」などのブランドを打ち出し、今年始めには2015年の中国出版界で最も活躍した人物を表彰する「年度出版人」に選ばれたばかり。そんな出版人にいったい何が起きたのだろうか。

 今回の事件の詳細はほとんど公表されておらず、実情は定かではない。この件について、最も詳しい報道を行った中国のメディア「鳳凰網」の記事などによると、大半の同社社員は「詳しいことは知らない」「答えられない」と口をつぐむのみ。同社に厳しい箝口令が敷かれていたという。

【参考記事】香港名物「政治ゴシップ本」の根絶を狙う中国

 何氏は広西師範大学の研究者だったが、1994年に同社に入社し、編集者となった。能力を買われ、1998年に編集長に起用され、2008年から社長を兼務した。分かっているのは、すでに何氏は逮捕されており、一緒に長年同社を引っ張って来た女性編集長も免職されていることだ。何氏は理想を追求する良心派の出版人で、タバコも酒もやらず、車にも乗らずに徒歩で出勤するなど、昨今中国で急増したすぐに腐敗するタイプの幹部ではなかった。非常にゆるやかに社員を管理し、どんな本でも社員が作りたいといえば基本的に応援し、組織の上からのプレッシャーには自分が責任を持って押し返す、という仕事ぶりだったという評判が広く語られている。

プロフィール

野嶋 剛

ジャーナリスト、大東文化大学教授
1968年、福岡県生まれ。上智大学新聞学科卒。朝日新聞に入社し、2001年からシンガポール支局長。その間、アフガン・イラク戦争の従軍取材を経験する。政治部、台北支局長(2007-2010)、国際編集部次長、AERA編集部などを経て、2016年4月に独立。中国、台湾、香港、東南アジアの問題を中心に執筆活動を行っており、著書の多くが中国、台湾でも翻訳出版されている。著書に『イラク戦争従軍記』(朝日新聞社)『ふたつの故宮博物院』(新潮選書)『銀輪の巨人』(東洋経済新報社)『蒋介石を救った帝国軍人 台湾軍事顧問団・白団』(ちくま文庫)『台湾とは何か』『香港とは何か』(ちくま新書)。『なぜ台湾は新型コロナウイルスを防げたのか』(扶桑社新書)など。最新刊は『新中国論 台湾・香港と習近平体制』(平凡社新書)

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

難民認定の南ア白人59人が米到着、移民規制の中の優

ビジネス

NY外為市場=ドル急伸、米中合意で景気懸念が緩和

ワールド

トランプ氏、薬価引き下げへ大統領令署名 専門家は実

ビジネス

米財政黒字、4月は23%増の2580億ドル 関税収
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:2029年 火星の旅
特集:2029年 火星の旅
2025年5月20日号(5/13発売)

トランプが「2029年の火星に到着」を宣言。アメリカが「赤い惑星」に自給自足型の都市を築く日

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    心臓専門医が「絶対に食べない」と断言する「10の食品」とは?...理想は「1825年の食事」
  • 2
    カヤック中の女性がワニに襲われ死亡...現場動画に映った「殺気」
  • 3
    シャーロット王女の「親指グッ」が話題に...弟ルイ王子との微笑ましい瞬間が拡散
  • 4
    母「iPhone買ったの!」→娘が見た「違和感の正体」に…
  • 5
    ゴルフ場の近隣住民に「パーキンソン病」多発...原因…
  • 6
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 7
    「出直し」韓国大統領選で、与党の候補者選びが大分…
  • 8
    「がっかり」「私なら別れる」...マラソン大会で恋人…
  • 9
    ロシア艦船用レーダーシステム「ザスロン」に、ウク…
  • 10
    5月の満月が「フラワームーン」と呼ばれる理由とは?
  • 1
    心臓専門医が「絶対に食べない」と断言する「10の食品」とは?...理想は「1825年の食事」
  • 2
    健康は「何を食べないか」次第...寿命を延ばす「5つの指針」とは?
  • 3
    脂肪は自宅で燃やせる...理学療法士が勧める「3つの運動」とは?
  • 4
    5月の満月が「フラワームーン」と呼ばれる理由とは?
  • 5
    部下に助言した時、返事が「分かりました」なら失敗…
  • 6
    シャーロット王女の「親指グッ」が話題に...弟ルイ王…
  • 7
    ロシア機「Su-30」が一瞬で塵に...海上ドローンで戦…
  • 8
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 9
    ついに発見! シルクロードを結んだ「天空の都市」..…
  • 10
    「2025年7月5日に隕石落下で大災害」は本当にあり得…
  • 1
    心臓専門医が「絶対に食べない」と断言する「10の食品」とは?...理想は「1825年の食事」
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    脂肪は自宅で燃やせる...理学療法士が勧める「3つの…
  • 5
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 6
    健康は「何を食べないか」次第...寿命を延ばす「5つ…
  • 7
    「2025年7月5日に隕石落下で大災害」は本当にあり得…
  • 8
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
  • 9
    【クイズ】世界で2番目に「軍事費」が高い国は?...1…
  • 10
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story