コラム

UAEメディアが今になってイスラエルとの国交正常化を礼賛し始めた理由

2020年09月08日(火)06時40分

ムハンマド皇太子はトランプ大統領とネタニヤフ首相を難局から救い出しただけではなく、「平和の敵」と国際社会から批判されていた2人を、一転、「平和の立役者」として国際舞台に引き上げたことになる。同皇太子が現在のアラブ世界で最も野心的で戦略的な指導者とみなされていることを、納得させるような果断な動きである。

この合意で、パレスチナ自治政府が敗者とみなされるのは、2002年2月のパレスチナでのインティファーダ(反占領闘争)の真っただ中で、サウジアラビアのアブドラ皇太子(後、国王)がアラブ首脳会議で提案した「イスラエルが占領から全面撤退すれば、アラブ諸国はイスラエルと和平を結ぶ」というアブドラ提案が崩れることになるためだ。

アラブ世界でのパレスチナ問題の地盤沈下は新たな問題ではないが、露骨にイスラエル寄りの立場をとったトランプ政権になってから顕著となっていた。

パレスチナ難民が出た1948年の第1次中東戦争(イスラエル独立戦争)から70年目の2018年に、トランプ大統領の決断で在イスラエルの米国大使館をエルサレムに移転させたときも、アラブ世界からの反発の動きは弱かった。

ネタニヤフ首相の意向をそのまま盛り込んだような今年1月のトランプ大統領の和平提案にも、反発は出なかった。むしろ、UAEとバーレーンとオマーンの3カ国の駐米大使は、和平案の発表に立ち会った。

アラブ世界でパレスチナ問題はずいぶんと影が薄くなっていた上に、今年はコロナ禍の広がりで、パレスチナ問題は関心の外に置かれていたのである。

それでもネタニヤフ首相が性急にヨルダン川西岸の併合を進めようとすると、それに対してパレスチナのアッバス自治政府議長が欧州諸国や国連に働きかけて、「中東和平の危機」と併合に対する国際的な批判が高まった。

しかし、その外交的な成果は、UAEのムハンマド皇太子にあっさりと、さらわれてしまった。西岸の併合の問題でもめていたはずだったのに、一日で「歴史的な和平」に取って代わられた。

外交と交渉を得意としてきたアッバスは高齢、健康不安も抱える

今回の合意によって、パレスチナ側は政治戦略の練り直しを迫られるだろう。アッバス議長は故アラファト議長が率いたパレスチナ解放機構(PLO)の主流派ファタハの最後の第1世代の指導者であるが、すでに85歳となり、健康不安も抱えている。

アッバス議長はファタハ内で一貫して和平交渉派として動き、オスロ合意の秘密交渉を指揮した。アラファト議長の後、PLO議長、自治政府議長を継ぎ、粘り強い外交と交渉でアラブ諸国や国際社会と渡り合ってきた。しかし、今回のイスラエル・UAEの和平合意は、議長が得意とする外交舞台での敗北であり、致命的である。

指導者の世代交代だけでなく、アラファト議長以来続いてきた組織の指導者が民衆の声を代弁するという政治の在り方自体が通用しなくなっている。

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プロフィール

川上泰徳

中東ジャーナリスト。フリーランスとして中東を拠点に活動。1956年生まれ。元朝日新聞記者。大阪外国語大学アラビア語科卒。特派員としてカイロ、エルサレム、バグダッドに駐在。中東報道でボーン・上田記念国際記者賞受賞。著書に『中東の現場を歩く』(合同出版)、『イラク零年』(朝日新聞)、『イスラムを生きる人びと』(岩波書店)、共著『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか』(集英社新書)、『「イスラム国」はテロの元凶ではない』(集英社新書)。最新刊は『シャティーラの記憶――パレスチナ難民キャンプの70年』
ツイッターは @kawakami_yasu

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