コラム

公開オンライン講座(MOOC)本格普及で     米トップ大学の講義もコモディティー化する

2012年07月20日(金)13時42分

 インターネット上でアメリカ有数の授業を受けられる機会が、本格的に増えてきた。しかも「無料」だ。この手の授業は「MOOC(massive open online course、ムーク)」と呼ばれる。大人数が参加できる公開オンライン講座のことで、有名どころだけでも5つはある。

 10年ほど前、学内の授業をビデオや教材にしてサイトにアップし、最初に無料で公開したのはMIT(マサチューセッツ工科大学)の「オープン・コースウェア」だった。同大学は、最近ハーバード大学と手を組み、新たに「edX」をスタートさせている。こちらは他の大学も加わって、授業にクイズやテストなども盛り込んで、よりオンライン授業としての体裁を整えたものになるという。今秋から本格的にスタートする。

 スタンフォード大学もかねてから授業の一部を公開してきたが、ここから新しいベンチャーが生まれている。「コーセラ(Coursera)」という名前のMOOCである。こちらは、同大学のコンピュータ・サイエンス学部の教授、准教授が共同で設立した営利企業。シリコンバレーの大手ベンチャー・キャピタル会社がすでにかなりの資金を投入している。現代的なテーマの授業がそろっていて、けっこう興味をそそられる。

「カーン・アカデミー」は、もう少し年少の小学生から高校生を対象としたもの。黒板と音声で作られた授業が中心だが、3000以上あるビデオのほとんどは、創設者のサル・カーンが自分で吹き込んだもの。ヘッジファンド・マネージャーだった彼はある日、インターネット経由で姪の勉強の手助けをしたことがきっかけとなって、カーン・アカデミーを設立することになった。彼の声からは、いかにも教えることを楽しんでいる様子が伺われる。

「ウダシティー(Udacity)」は、やはりスタンフォード大学教授のセバスチャン・トゥルンが共同創設した企業。こちらも、ベンチャー・キャピタルがバックについた注目株である。トゥルンはグーグルの自律運転自動車の開発者でもあり、そのギークぶりを反映してか、ウダシティーには『ロボティック自動車のプログラム』とか、『検索エンジンの作り方』など、それっぽい授業がたくさん並んでいる。優秀な学生には、就職の紹介も行うという。

 どのMOOCを見ても、そこに並んでいるのは向学心が沸いてくるような魅力的な授業ばかりで、しかも経験ある教授陣が教えている。こんな授業をただで受けられるとは、何と素晴らしいことかと感謝したくなるのである。

 さて、そんな数々のありがたい授業が無料で公開されているというこの事態は、教育にとって何を意味するのか。

 もちろん、教育は恵まれた少数のためだけにあるのではなく、広く世界中の向学心ある人々に提供したいという大学側の意図ははっきりしている。日本と同様、アメリカのトップ大学も裕福な家庭の出身者が多くなっていると聞く。小さい頃から、教育熱心な環境に育ち、いろいろな機会に恵まれてこそいい大学へ進めるというわけだ。MOOCへトップ大学が動き出したのは、そうした恵まれた層の中だけで優れた高等教育が独占されてしまうことに危機感を抱いたことも理由だろう。

 しかし、逆から見ると、そんなトップ大学の授業も今やコモディティーになりつつあるということだ。まるでビデオ画面を見ているような一方的な講義ならば、無料で受けられる時代が到来した。実際に大学へ通っているのならば、そこで教授に鋭い質問を投げかけ、同級生と面白いプロジェクトでも始めるようでなければ、高い授業料を払っている意味がなくなるのだ。

 授業とは何かも、ここで考えなければならない。たとえばカーン・アカデミーの授業は、実際の学校が多く利用している。使い方はこうだ。生徒たちは家でビデオを見て予習を済ませ、学校の授業では、わからないところを質問したり、みんなで議論をしたりという一歩突っ込んだ展開となる。これは、先生や仲間と「やりとり」することによって、学習の質が深まるという教育理論に基づいたものだという。

 もちろん、こうしたオンライン授業が、大学の次の「ビジネス・モデル」を探る実験であることも忘れてはならない。世界中に学生がいたらどうなるか。広く彼らに手軽で安い方法で、最高の教育を提供するというビジネスは成り立つのか。そんなことをアメリカの大学は模索しているのだ。

 また、さまざまな授業サイトが出てきたということは、これから大学教授もフリー・エージェント化するという兆しと解釈することも可能だろう。長々とした教授会に出席する必要もなく、学内の官僚的組織にとらわれることもなく、教えることだけに集中できるわけだ。

 ただ、もっとも心すべきは学生たちだ。世界中には、たとえコンピュータの画面からでも、搾り取るように勉強をする人々がたくさんいるのだ。これからは、就職も仕事も、インターネットを介せばどこからでも可能になる。大学の授業で居眠りばかりしていては、向学心に燃えた彼らに大負けしてしまうということなのである。

プロフィール

瀧口範子

フリーランスの編集者・ジャーナリスト。シリコンバレー在住。テクノロジー、ビジネス、政治、文化、社会一般に関する記事を新聞、雑誌に幅広く寄稿する。著書に『なぜシリコンバレーではゴミを分別しないのか? 世界一IQが高い町の「壁なし」思考習慣』、『行動主義: レム・コールハース ドキュメント』『にほんの建築家: 伊東豊雄観察記』、訳書に『ソフトウェアの達人たち: 認知科学からのアプローチ(テリー・ウィノグラード編著)』などがある。

ニュース速報

ビジネス

中銀、英EU離脱で市場不安定化なら介入の用意=EC

ビジネス

インタビュー:資源分野利益を20年に3倍へ、投資継

ワールド

オーストリア大統領選、決選投票やり直しへ 憲法裁が

ワールド

ECBの政策変更検討は時期尚早=オーストリア中銀総

MAGAZINE

特集:BREXITの衝撃

2016-7・ 4号(6/28発売)

世界を揺るがせたイギリス国民投票のEU離脱派勝利。リーマン危機級のパニックが再びグローバル経済を襲うのか

人気ランキング (ジャンル別)

  • 最新記事
  • コラム
  • ニュース速報
  1. 1

    もし第3次世界大戦が起こったら

  2. 2

    ハーバードが絶賛する「日本」を私たちはまだ知らない

  3. 3

    英キャメロン首相「EU離脱派6つのウソ」

  4. 4

    財政赤字を本気で削減するとこうなる、弱者切り捨ての凄まじさ

  5. 5

    未婚男性の「不幸」感が突出して高い日本社会

  6. 6

    ISISが3500人のNY「市民殺害リスト」をアプリで公開

    無差別の市民を選び出し、身近な標的を殺せと支持…

  7. 7

    「国家崩壊」寸前、ベネズエラ国民を苦しめる社会主義の失敗

  8. 8

    コンビニATM14億円不正引き出し、管理甘い日本が狙われる

    アフリカ諸国、東欧、中東などでは不正分析ソフト…

  9. 9

    Windows10の自動更新プログラム、アフリカのNGOを危険にさらす

  10. 10

    搾取されるK‐POPのアイドルたち

  1. 1

    レイプ写真を綿々とシェアするデジタル・ネイティブ世代の闇

    ここ最近、読んでいるだけで、腹の底から怒りと…

  2. 2

    伊勢志摩サミットの「配偶者プログラム」はとにかく最悪

    <日本でサミットなどの国際会議が開催されるたび…

  3. 3

    英国のEU離脱問題、ハッピーエンドは幻か

    欧州連合(EU)にさらに権限を委譲すべきだと答え…

  4. 4

    間違い電話でわかった借金大国の悲しい現実

    ニューヨークに住み始めた僕は、まず携帯電話を手…

  5. 5

    嫌韓デモの現場で見た日本の底力

    今週のコラムニスト:レジス・アルノー 〔7月…

  6. 6

    中古ショップで見える「貧困」の真実

    時々僕は、自分が周りの人々とは違った経済的「…

  7. 7

    移民問題が「タブー」でなくなったわけ

    ここ数年、僕たちイギリスの国民は、一部の政治…

  8. 8

    パックンが斬る、トランプ現象の行方【後編、パックン亡命のシナリオ】

    <【前編】はこちら> トランプ人気は否めない。…

  9. 9

    日本で盛り上がる「反知性主義」論争への違和感

    日本で「反知性主義」という言葉が流行している…

  10. 10

    【市場】いよいよ終わりの始まりが始まった

    いよいよ終わりの始まりが始まった。それは日銀のマ…

  1. 1

    メルセデス・ベンツの長距離EV、10月に発表=ダイムラー

    ドイツの自動車大手ダイムラーは、メルセデス・…

  2. 2

    米フロリダ州の乱射で50人死亡、容疑者は警備最大手に勤務

    米フロリダ州オーランドの、同性愛者が集まるナ…

  3. 3

    英国のEU離脱派と残留派、なお拮抗=最新の世論調査

    11日に公表された世論調査によると、英国の欧…

  4. 4

    英EU離脱は連合王国のリスク、元首相2人が警告

    英元首相のトニー・ブレア氏とジョン・メージャ…

  5. 5

    ECBのマイナス金利、銀行に恩恵=コンスタンシオ副総裁

    欧州中央銀行(ECB)のコンスタンシオ副総裁…

  6. 6

    米国株式市場は続落、原油安と世界経済懸念が重し

    米国株式市場は2日続落で取引を終えた。原油が…

  7. 7

    NY市場サマリー(10日)

    <為替> 原油安や銀行株主導で世界的に株安が…

  8. 8

    インタビュー:世界的な低金利、エンダウメント型投資に勝機=UBSウェルス

    UBSウェルス・マネジメントのグローバルCI…

  9. 9

    焦点:タカタ再建、「ラザード」効果で進展か 車各社との調整に期待

    欠陥エアバッグ部品の大量リコール(回収・無償…

  10. 10

    英国民投票、「EU離脱」選択で何が起こるか

    欧州連合(EU)は6月23日の英国民投票を控…

定期購読
期間限定、アップルNewsstandで30日間の無料トライアル実施中!
メールマガジン登録
リクルート
売り切れのないDigital版はこちら

MOOK

ニューズウィーク日本版別冊

0歳からの教育 育児編

絶賛発売中!

コラム

パックン(パトリック・ハーラン)

モハメド・アリ、その「第三の顔」を語ろう