コラム

イラク:イカレたクールな若者の災難

2012年03月15日(木)09時40分

 「イラクでエモ青年殺害される」。

 こんな記事が英BBCで3月14日に報道された。

 まず中東情勢をフォローしている人たちは「エモってなんだろう」、と思っただろう。そして、ロック好きの人なら、「なんでイラクにエモが?」と思ったに違いない。
 
 「エモ」とは、一般的には80年代後半以降のハードコア・パンクの流れのひとつのことである。ギンギンのドライブ感なのにメロディは妙に歌い上げ型で情緒的、歌詞は内省的といった特徴を持つので、なんとなく女々しいとか、文学的で暗いイメージが付きまとう。

 それがイラクに居るとは、どういうことか。いや、別にそうしたジャンルの音楽が流行っているわけではなくて、「エモ」的ファッション(つまり、黒で身を包み髑髏マーク入りのTシャツにタイトなジーンズ、髪は長くてツンツンさせる)が若者に流行り、それがイスラーム政党率いる「お上」の不快を買っている、ということになのである。なんにせよ、イスラームとはおよそ相容れない。宗教保守派には、「悪魔主義」とまで罵倒されている。

 だがより大きな問題は、「エモ」がゲイの代名詞となっていることだ。イスラームでは、ゲイは厳禁である。「お上」が直接手を下しているのではないにしても、治安や風紀を牛耳る各種イスラーム政党の軍事部門が、こうした公序良俗を乱すイスラームから逸脱した輩を成敗して回っているらしい。昨月は60人近い若者が、殴られるかコンクリ・ブロックで頭をかち割られるかして、殺された。去年から数えると被害者は200人にも昇るという。

 もともと世俗性の強いイラクでは、50-80年代頃は宗教的タブーを打ち破る前衛的な思想家や芸術家が多かったし、性的に開放的な人々も少なくなかった。「飲酒と自由恋愛は知識人の証」的な当時の世界の風潮は、イラクや中東でもそれなりに流行っていたのだ。イラク開戦前夜にもゲイでロック好きのブロガー、「サラームパックス」が登場して、一躍有名になった。まあ、80年代にバグダードだけで70件以上もキャバレーがあったとか、酒屋にはウォッカが溢れていたとかいうのは、前衛芸術とは関係ないと思うけれど。

 ただそれだけではなく、今ゲイで「逸脱した」格好の若者が増えているのには訳がある。戦争と戦後復興の遅れで仕事も収入もない若者は、結婚資金が準備できないので結婚できない。自由恋愛しようにも、戦後一貫してイスラーム政党が与党となる現政権では、厳しい。もともとゲイじゃなくても、女の子と簡単に友達になれないなら・・・的風潮が生まれる。ついでに言えば、戦後若者のアル中が増えたのも似たような流れだ(イスラーム勢力が次々に酒屋を潰して回ってはいるけれど)。

 ここで興味深いのは、「エモ」青年が増えたのが2009年あたりからだということである。昨年中東を席捲した「アラブの春」の嵐はイラクでも吹き荒れたが、そこで主導的役割を果たした青年運動(「青いイラク革命」と呼ばれる)が結成されたのも、2009年末だ。彼らもまた、比較的世俗的で左派に近いといわれている。

 つまり二年半前頃から、非イスラーム的で「自由奔放な」若者たちが、戦後のイラク政権による過度なイスラーム化に対して、文句を言い始めた。それがある面では街頭での抗議行動につながり、ある面ではサブカル的な自己主張につながったのだろう。

 だが、「エモ」を攻撃している暴力的なイスラーム勢力も、実のところは、旧政権時代に徹底的に疎外されて行き場を失った若者たちが結集して大きくなった組織である。若者のやり場のない怒りと屈折は、いつの時代も政治も文化を動かす。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

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